入学式の想い出2010/04/01

入学式の想い出のバックは満開の桜
昔は4月1日に入学式が行われた。
私は昭和9年に小学校に入学した。
幼稚園を拒否したから団体生活は初めてだったが 兄と姉の様子を見てたから あまり緊張感はなかった。 
講堂で盛装した着物姿の母親がたに見守られながら 皆おとなしく椅子に腰掛けていた。 壇上の校長先生は威厳があったが優しそう、母親同士の会話から人格者だと聞いていた。

新入生は一人ずつ名前を呼ばれると「ハイ」と答えて起立して行く。 私の番になったら、違う名前を呼ばれた。苗字は合ってるのだが名が違う。 一瞬戸惑ったが漢字の読み違えと思って返事をして立った。
その頃女の子には「子」がついたが。我が家は父の方針で末尾に「子」がない。 それで男の子と間違え、男らしい読み方をしたみたいだ。 
母は父兄席で 私が泣き出すのではないかとハラハラしたそうだ。 ほんと 大人しいくせに大声で泣く子だったから。

式が済んだ後、教室に入り担任の先生に初めて会う。 熟年の穏やかな男性の先生でホッとする。 男女併せて50名のクラスだった。
世間知らずの ぼんやりした女の子だったと思う。
しかし クラスの子も みな おとなしかった。
十数年前に農漁業の地から新興住宅地に変貌した町だから、格差社会で公立小学校はその縮図でも有ったが イジメのような陰湿なものを私は見たことがない。

小学校は楽しかった。 始業の1時間前には登校して 縄跳びやドッジボールで遊び、放課後は下校のチャイムが鳴るまでまた校庭で遊び、そんまま空き地でまた皆と遊んだ。
クラスメートの家にも よく押し掛けたが、家の方は知らん顔で
その自由さが嬉しい。 洋室のハイカラな子供部屋の子、広大な敷地の中の離れの鍵を爺やが開けてくれる家、トイレの臭いのする部屋で角砂糖1個を大事そうにくれた友、継母に邪険にされながら甘えようとしていじらしかった友、昔の公立小学校に通って学んだものは大きかった。

女学校に進学する時。進学出来ない友がいる現実がショックだった。 自分が恵まれてることにあまり気がつかず、相手の痛みも理解していなかったのた。我が家もたいしたことなく典型的な中間階層だったが。

ま そういうことの始まり、社会生活に足を踏み込んだ 記念の入学式ではあった。 あの時の光景が未だに眼に浮かぶ。

泣き虫2010/04/02

電車の中で
医院の待合室や、電車の中でときどき大泣きしている赤ちゃんを見かけると
「おお 今のうちだよ 思いっきり自己主張していいんだよ」
と微笑ましく、ちょっと羨ましい気持ちになる。
若いお母さんは周囲に気兼ねして何とかなだめようとしてるが、生理的欲求以外にも赤ちゃんなりの理由があるはずだ。
私は泣き虫だったから泣く子には同情的だ。
駄々をこねるのとはチョッと違う。
理由は解っているのだが、うまく伝えられないし、説明しても理解されないから ただ 泣くのだ。
母がポツンと「あんたは 勝ち気なのね」と呟いたのを聞いて、ああ そうかも知れないと気がついた。
子供扱いされるのがイヤだったようだ。

5歳のころ、扁桃摘出の手術をした時の先生は、手術の方法を丁寧に説明して下さってから「口を大きく開けてね」、 
看護婦さんがガーゼで目隠ししようとしたので、口を閉じて首を振ったら先生が手振りで制止してくださった。 手術はあっというまに済んだがジーッと先生の仕草を見つめていた記憶がある。

人の性格は様々でどの性格が良いってことは無い。
私の泣き虫癖は なんと小学4年生まで続き、5年生になって転勤して来られた新しい先生が担任になられた途端、ピタッと泣かなくなった。 それまでの先生は我が家とも親しく、特別に可愛がって頂いて感謝している。 でも 普通になって気が楽になったのも事実だ。

その後、人前で大泣きしたのは父が亡くなった直後くらいかな。
母が亡くなった時は 毎晩ベッドに入ってから秘かに泣いたっけ。
高齢になると涙もろくなると聞いたが、私は一生分の涙を10歳までに殆ど使ってしまったらしい。

カメラ騒動2010/04/03

私は初めて見た画像
桜 満開!
所用で出掛けたついでに その近くの桜の名所を覗いた。
寒さにも 昨日の突風にもめげず 小さな川の両岸は淡いピンクで埋め尽くされていた。
さくら さくら に包まれたこの一刻が たまらなく貴重に思える。 時間よ しばし止まってよ!
美にひたる喜びと 明日をおもう儚さとが交錯する。

ともあれ 現実に戻ってデジカメで撮りまくった。 下手な上に手ぶれするから枚数で勝負。
もうこれで最後と思った時にカメラから変な音が聞こえた。
モニターには見覚えの無い画像が静止している。 シャッター押しても反応無し。 電源ボタン押してもキレなくて望遠レンズが伸びたまま引っ込まない。

大変なことになった! 保証期間内だけど明日は近くの公園のサクラを撮る予定だし、購入したお店は遠いし、サポート窓口は土日はお休みだ。
ケースに入らないからハンケチに包んで持ち帰った。
早速使用説明書を見たがそんな症状の説明は見当たらない。 でも心の何処かに 何とかなりそうって気持ちがあった。

そうだ 電池切れかも。 早速充電器をセットして昼食済ませてからカメラに戻したら生き返った!
カメラ扱う方には常識かもしれないけれど、私は初体験で慌てました。 ほんとうに ホッとしました。
最後に写っていた写真、電池キレるとこんな写真になるのですね。 不思議!

筍(たけのこ)談義2010/04/04

掘りたての筍
筍の美味しい季節になった。
関西育ちの私は、筍は京都郊外が最高との思い込みがある。
今はモダンな住宅地になっているのだろうが、昭和20年代には少し街中をはずれると青々した竹林が有った。
そこの朝採りのタケノコは ほんとうに美味しかった。
どっしりと太くて切り口の瑞々しかったこと!
灰汁抜きなんて必要なかった。 
縦二つに切って 皮を剥がし そのままザクザク切ってタケノコご飯にしても 大丈夫。
1本あれば いろんな料理ができ、一番内側の ほんのり薄黄緑がかった白い皮も美味しく食せた。

私が好きだったのは 「木の芽あえ」
山椒の若葉をサッと湯通しして 擂鉢で擦り淡い色の味噌と混ぜると若草色がかった美しい色になる。 茹でたタケノコの先端のほうをこの味噌で和えて小鉢に盛り、上に木の芽を飾る。
食卓に 春が来たって感じが嬉しい。

料亭の筍料理は しっかり灰汁抜きされていて 上品なお味だが、タケノコはチョッと野性味のあるほうが コクがあり 季節感もあって好きだ。

松茸とかタケノコは自分で採って その場で焼いたりして食べるのが最高の贅沢だと思う。
便利な地に住むようになって良いことはいっぱいあるが、野菜とお魚だけは、漁港や畑や竹林の傍に住んだ頃の味が恋しい。
しかし 今はそんな料理をすること自体、必要が無くなってしまった。

サクラ サクラ2010/04/05

公園の満開の桜を観ながら
サイタ サイタ サクラガ サイタ
昭和初期の小学一年生の 国語の教科書の 最初のページだ。
色刷りの満開の桜の木が描かれている。
教科書がカラーになったのは当時画期的なことで、文章も其れにふさわしいものに変わった。 子供心にもチョッと誇らしかった。

今日もヒアルロン酸の注射をして貰いに整形に行った帰りバスの中から街を眺めると もう 至る所に満開の桜が。 生憎の雨だがサクラは瑞々しく淡いピンクがかった白が映えて美しい。
日本人って ほんとうにサクラが好きなんだなぁ。
昔は学校にサクラは付き物だった。 入学式にはサクラの花に迎えられる。
そして 初めて正式に習う字が サイタ サイタ サクラ ガ サイタ なのだ!

今住んでいる街は新興住宅地だから 学校だけでなく 公園も街路樹も 個人の家まで サクラの多いこと!
たった十日あまりの花景色に掛ける思いって凄い。
私もこのパッと咲いてハラハラと散る情景が大好きだ。
バスの窓から眺めながら 気がつくと 小学生になった頃を思い出していた。
 戦時中にはサクラで連想する哀しい思い出もある。
でも 今は平和の象徴 不景気も忘れて楽しむ。
もっと見ておきたいと欲張って落ち着かない時期でもあります。

大人になって4月1日にサクラが咲いてる地域は限られていることに気がついた。 大都市にあわせて教科書も作られていたのですね。