ベッドと時計2010/03/01

パンジー(CG)

明け方、寒くて眼が覚めた。
天気予報では温かいと言ってたのに、エアコンも22度にして点けてるのに、この深々とした冷え込みは何だろう?
もしかしてウオーターベッドのヒーターの故障かも。 
ベッドの配置換えしたときサーモスタットを壁際の見えないところに押し込んだままだった。 何となく気にはなっていたのだ。
手探りで引っ張りだして見たら灯りが消えている。 温度設定を最大まで回してみたが点灯しない。

買って20年以上経ってるもの、故障したら日本のメーカーじゃないからお手上げだ と最悪のことばかり思う。
先ずは場所を変えて様子を見ようとプラグを手探りで引き抜いたら、幾つか差し込んでいた元を抜いてしまって、電話の子機はピーピーわめくし、デジタル時計は12時に戻ってしまうし、眠い時にやるとロクなことがない。

電話はボタン一つで黙らせられるが、時計が曲者だ。
デジタルが珍しいころに夫が秋葉原あたりで買ってきた外国製品で時刻合わせがパズル並みだ。 夫がいなくなってからは電源を切らないように注意してきた。
一度切れた時は底に夫の手書きの簡単なメモが張ってあるのを発見してどんなに感謝したか!
今回もそれを見ながら、このボタンとこのボタンを同時に押してとか試行錯誤するが上手くいかない。 押し方にもコツがあることを発見。 骨董品みたいに愛着があるから執念で直した。

ベッドに取りかかる。 カヴァーを剥ぐと水の入ったビニール袋が6本、これが重い!!  それを詰めた入れ物のの下にヒーターがある。
水の重力を移動させながら次々めくった。
 82歳の女性のやることかよ~  でも何とかやれそう。
やっとヒーター板が現れ、結果センサーなど3本のコードのうち電源に繋がるコードの差し込みが抜けていた。
早速繋いでコントローラを見ると青い灯りが点いた。
ああ~ 良かった!  もうしばらく使えそう。
冷たいプールの上で寝てたようなものだから寒かったのも無理はない。 風邪ひいたのもこれのせいかしら。

後始末をして何だかんだで3時間近くの頭と体の労働、夜明けに一日分の精力を使い果たした感じ。
でも整備しなおしてベッドも快適になった。 体力にもちょっと自信が持てた。

ベッド遍歴2010/03/02

静物 水差しとエンゼル(油彩)

昭和27年ごろに初めて洋風の家に移った。 オレンジの屋根に白い壁の小さな家だった。
家具は買えないから、「暮らしの手帖」を見て応接セットを夫が手作りしたがベッドは無理だ。

お祝いに戴いた3千円で、取りあえずマットレスだけ購入。
中身は藁だったような記憶があるのだが・・・・。
ともかく分厚くて寝心地は悪くなかった。

2番目に買い換えたのは まともなWベッドだ。
その頃はまだ駐留軍の払い下げ品を置く店があって、そこで新品同様の掘り出し物を見つけて即購入。
ただ あちらサイズだから矢鱈と大きく頑丈だ。
転勤などで引越しをする時は重くて大変だった。
これは20年近く愛用した。 その間に日本も経済成長して国産の立派なベッドが出回って来て、それらと比べると貧弱に思えてくる。

   (見た眼は実用本位だったが、買い換えてから、小さく解体してゴミにだそうと庭で切り開いたら馬の毛が分厚く敷き詰めれていて、中に一つずつ木綿の袋で包まれスプリングがびっしり並んでいた。 軍の払い下げで、ちょっと馬鹿にしていたら開けてみて立派なのに感心した。)

次に買ったのが、昨日悪戦苦闘したウォーターベッドだ。 夫婦して新しいモノが好きだから輸入品を扱うお店で見つけた時は嬉しかった。
運んできてくれた時はちゃんとセッティングしてくれたが、説明書がアチラ語だからあとあと苦労した。  寝心地は抜群でよく眠れた。
(腰には固いマットが良いそうだがら人には勧めない、でも水の弾力が私は好きだ)

10数年経ってまた引越し、新居で新しいベッドを2台買った。
下に引き出しが付いていて便利、マットもまあまあだったが、1年ほどして夫はボタンで操作する介護用ベッドになる。

夫がいなくなると置いてきたウオーターベッドが懐かしくなって運んでもらい、今使っている。

欧米では古い家具が大事にされ、ベッドも代々受け継がれると聞くが、我が家では世につれて幾つか経験して、それなりに楽しかったな。

お雛様の思い出2010/03/03

16歳ごろ描いた掛け軸
子どもの頃、桃の節句が近くなると母は一人で雛人形を飾っていた。
昔、嫁入りの時に持って来たものらしい。
姉も私も古めかしい人形に全然興味がなかった。フランス人形のほうがずーっと素敵だと思っていたのだ。

それでもハッキリ覚えている。
御殿造りというのか、精巧な御殿のなかに収まっていて両端には欄干のついた渡り廊下があった。
御殿の中の一段低くなった所に三人官女が並んでいたっけ。
その下には左近の橘、右近の桜、左大臣、右大臣、
その下には可愛いい五人囃子、一番下の段には蒔絵のお道具類のミニチュアが。

母は毎年出しては愛おしそうに眺めていた。 実家の派手だった商家での子ども時代を思い出していたのかも知れない。
どうして もっと母に話しをねだり、一緒に楽しまなかったのだろうと悔いる。今ならあのお雛様の品の良いお顔や調度の美しさに酔いしれただろうに。

このお雛様は終戦間際に生まれた初孫(姉の子ども)に贈られた。 窮乏のどん底でお雛様など手に入らなかった時代だ。
その子が疎開先の小学校に入り、ひな祭りには先生に引率された生徒が見学に訪れたそうだ。

百年以上前のお雛様は どうなったのだろう。 ちょっと聞き難くい。 この時期になると古い日本間の隅に飾られていたお雛様がスポット当てたように浮かんでくる。

日本画の思い出2010/03/04

御所人形(叔父の遺作)
女学生の時に描いた雛人形を昨日眺めたら当時のことを思い出した。
洋画の先生やアトリエには何となく親しみがあったが、母に連れられて初めて日本画の先生のお宅に伺ってみると全然勝手が違う。
前栽に打ち水がしてあり、広いお玄関の式台に恐る恐るあがって衝立ての奥の階段を上ると廊下の横に細長いお稽古場があった。
コの字型に座卓が並べられ奥に先生が袴姿で座ってられる。
次回から一人で行くとこの廊下に座って名前を告げてから障子をそろっと開けて、皆様にご挨拶をしてから下座に座るのだ。
子どもは私だけだった。
最初の一年ぐらいは前に置かれた花や静物をドウサを引いた半紙大の和紙に顔彩(日本画絵の具)で写生した。
先生は穏やかな方で丁寧な言葉で教えてくださり、私語もまったくない、清々しい雰囲気だった。
二年目あたりから絹に描き始めた。 お手本を見ながら大きな和紙に書き写し、その上に絹布を置いて透けて見える下絵をなぞりながら仕上げて行く。 下絵通りと言っても長い輪郭線などは失敗が許されないから緊張した。

基本を修行してから創作の段階へとは頭では理解していたが、段々お手本通りに描くことに抵抗を感じ出した。
市民生活にも戦争の影響が次第に強くなり、一年早く進学して家から離れたこともあって私の日本画は3年あまりで終わった。

60歳代半ばを過ぎてやっぱり絵が忘れられず、今は油彩や水彩を楽しませてもらっているが、日本画の良さも沁み沁み感じるようになった。

結婚して夫の親戚に日本画家が二人もいらして嬉しかった。
添付した御所人形はその一人が色紙に描いて下さったもの。美しい絵を描かれて素敵な方だったが40代で不遇のうちに亡くなられた。
50年以上前の話しである。

絵を描くこと2010/03/06

海辺の家にいたころ庭で写生

先日ご案内を戴いた知人の個展を観に行った。
5~6年前から描き始められたそうだが、長年画家のご主人を支えてこられただけに絵に対する理解度が深い。
さりげない身辺の花や、風景は柔らかい色調で優しい。
それでいて衒いのない品の良い画面の奥からキリっとした強さと知性が伝わってくる。

私なんかよりずーっと若い世代の方から 元気と刺激を受け、帰途いろいろ考えた。
アトリエに行けば先生が用意して下さったモチーフの素晴らしさに心奪われて新しい表現方法を模索する。 水彩で描いた次は油彩が描きたくなり、次はアクリルと、落ち着きがない。

家では有り余る時間が有る筈なのに、独りで描く習慣がなくなった。
たまに思い立って公園にスケッチに行ってみるが不本意な出来栄えにガックリする。
気軽に落書きしたり海や庭の花を描いていたころも有ったのだ。
家で毎日、眼についたものを無心に描きたい!
うん 食事と同じように 日課として習慣づけよう。
ここに書くことで、易きに流れる自分にプレッシャーをかけてみたが・・・
さて?