雪うさぎ(つづき)2010/02/08

深夜雪うさぎと遊ぶエンゼル達
こどもたちが 雪うさぎの夢をみながら寝てしまった深夜。
星がキラキラ光る夜空からエンゼルたちが降りてきた。
「みて みて 大きなウサギがいるよ」
「お花つけて かわいいね」
「こんなとこに 帽子とマフラーがあったあ」
「ボクは 赤いマフラー ミーツケ」
ちゃっかり かぶって 巻いて嬉しそう。
こうさぎを連れて来たエンゼルは
「見てごらん ママだよ」

エンゼルもこどもなんです。 すっかり喜んで走り回ったけれど、むろん あしあとなんか残らない。
星の瞬く深夜には だーれも知らないことが起こってるんです。

(CGにハマってた頃の絵です)

雪うさぎ2010/02/08

大きな雪うさぎを作ったよ〜
朝、目が覚めてお外をみたら 世界中が真っ白!
「ワア〜 きれい」
こどもたちは 朝食もそこそこに飛び出して
「雪だるまつくろうよ」
「カー君も呼んでこよう」
みんなで相談
「普通の雪だるまじゃ つまんないよ」
「大きなウサギがいい」
それで
大きな 大きな 雪うさぎが 生まれました。
「このシッポ カワイイでしょ」
「ぼくは 頭に椿のお花つけてやる」
「それなら 胸にも 飾ってあげるね」
ながい時間かかったけど、
お腹すいて つかれたけど  みんな大満足でした。

(つづく)

スキー 昭和20年代2010/02/07

榛名山の雪景色(旅行の想い出)

神戸では雪は滅多に降らないから子供の時はスキーには無縁だった。
スキーなるものを初めて体験したのは、戦後に学校を卒業してから知人の紹介でアルバイトを短期間した時の仲間と一緒に行った近江のマキノスキー場だ。
男の子と二人で深夜に大津港から船に乗り、甲板下の大部屋で大勢が座ったまま眠りながら琵琶湖を渡って明け方に湖北のマキノに着く。
甲板に出て目の前に広がった白一色の雪景色を生まれて初めて見た感激は忘れられない! 
戦後2年も経たない生きるのに必死の頃だからスキーをする人数は少なかった。 リフトも勿論無い。 彼に教わりながらスキーを付けて横向きに1っ歩ずつ踏みしめながら登る。汗びっしょりになって頂上に着いて見下ろすと先行者の滑走した跡が曲線を描いて数本見える。 最高の眺めだった。 1時間以上かけた苦労を数分で滑るのが勿体ない、いやそれより尻餅着いて汚すのも・・・。
白銀の世界に酔い、暑くて、手先は凍えるように冷たくて、帰って4〜5日筋肉痛に悩まされたことしか覚えていない。

結婚してから夫が会社の同僚がたとスキーに行くと言うので従いて行った。鉢伏山だったかな、今度はちゃんと民宿に泊まってワイワイ楽しかった。
スキー用具は買ったが、ヤッケやズボンは手作りだったから防水が不完全な上によく転ぶから下着まで濡れて冷たかった。 ホッカイロなんて便利なものもなかったし。 山小屋で食べた熱いおうどんの美味しかったこと! 
やはり歩いて登り、最後は曲がりくねった山道を必死になって滑り降りた。 夫の上司から「いやあ 大したものですよ」と褒めて戴いたっけ。
次回から奥様同伴の方が多くなって和気藹々。
ボーナスもろくに出ない時代だったが、戦時下、いやその時もまだまだ苦労している人もいるのに、こんな贅沢していいのかしらと思いながらも青春をを満喫し、今こんな想い出があって良かったと沁み沁み思う。
この後、スキーに行く機会はなかった。

油彩画 新作2010/02/05

油彩 F15号
今年初めて描いた作品が仕上がった。
お教室で4回目の今日は仕上げの日、可愛い素敵なモデルさんの雰囲気を何とか表現したかったのだが、ムズカしい!

初回は期待と夢がふくらんで絵の具を乗せるだけで楽しい。
2回目はいろいろ考える余裕が有るが、3回目ちょっと焦りが出て来る。
仕上げの今日は、3時間 ただただイメージを追って筆とぺンティングナイフと手と布を駆使して描いて描いて・・・・。
ああ しんどかったぁ
他のこと何も考えずに夢中になるって たまらなく充実感がある。
もう1時間欲しかった、おかしな所も目につくが、それを弄り出したら絵が死んじゃうような気もする。

最後に先生が手を入れてくださって、う〜ん 目からウロコって感じ!  教えて戴くことは大きい。
後始末して一番最後になった私に「気をつけてね〜」と 息子よりお若い先生に声かけられて何だかとっても温かい気持ちになった。

2時間電車に揺られて帰宅、疲れたけど幸せな一日だったなぁ。

無縁死2010/02/04

公園のお山の残雪 昨日スケッチ

先日 NHKで放映された「無縁死」は随分大きな反響があったらしい。 私も敬遠したくなる題名だったが結局熱心に見て、考えさせられた。
人間、所詮は一人、どういう死に方でも死に変わりは無い、孤独死それも結構と割り切っていたつもりが、現実を見せられると動揺した。 寂寞たる思いは理屈じゃない。

昔はそれを避けるため親類縁者の付き合いに気を遣い、地域社会から排除されなように義理を尽くし、階級制度に甘んじ、会社で嫌な事も我慢し、自分の国のためにもつくした。
子ども連れで親戚を訪れるのは日常の恒例だった。
親が早世すれば、そこの子どもは親戚が手分けして成人するまで面倒を見るのが当たり前だった。

敗戦を境にして若者の意識は変わった上に発言権が強くなった。中年以上、ことに高齢者層は「民主主義の世の中になったのだから」の言葉に押さえられて何も言えなくなった。
窮屈なしがらみは避けられ、能力主義で落ちこぼれれば国家がみるべきだとなる。
女性が社会に進出すれば生活のための結婚はなくなる。
我々世代の夢が実現したとも思える。

大雑把に記したが、私も夢見て来た個人の自由を追い求めた一つの結果が「無縁死」「行旅死亡人」だとすると考えさせられた。
今の私は家族、友人に恵まれ幸せだが、この歳になって思うことは昔からの親友,知人に先立たれ、体力の衰えは否めない。若いとき思い描く以上に高齢期は厳しいと若い人達に伝えたくなるがオセッカイなのだろうな。

御座候 正岡子規2010/02/03

水仙(水彩) 昔ながらのこの種が好き

例によって整形の待ち時間用に文庫本を携えて行った。
正岡子規の「歌よみに与ふる書」 岩波文庫
昨年暮れのNHKドラマ「坂の上の雲」で子規を近しく感じて興味を持ち、書棚の隅に有ったこの本を持ち出した。

昔 司馬遼太郎の「坂の上の雲」を読んだ時の子規の記憶は薄いし、俳句に関する知識は少なく、短歌に至っては百人一首くらいだ。
それが ドラマで香川照之演じる子規像の逞しさにイメージが変わった。

「歌よみに与ふる書」は
”明治31年に発表され「古今集を和歌の聖典としてきた千年の歴史が持つ価値観を転倒させた衝撃的な歌論で、万葉の歌風を重んじ、現実写生の原理を究明した、和歌改革への情熱が漲っている”
の意の解説が表紙に書かれていた。

読みだして驚いたのは、漢文体というのか最後は候で終わる。
「御座候」「可申候」「可被下候」「有之候」「無之候」などなど。
ござそうろう 以外はほとんど返り点でモウスベクソウロウ、クダサルベクソウロウ、コレアリソウロウなどと読むが若い世代も常識かもね。

いやあ 新鮮で内容より先にその文体に魅かれた。 口調がいい!
最後の「御座候」などは余計なのだが、激しい論調の緩和体になってて、慇懃無礼とは異なる余裕を読者に与えてくれる。

読み進んでから旧仮名遣いで有ることに気がついた。 それほど自然に脳に流れ込んでいた。 旧仮名遣いが美しく感じられた。

少しは耳に親しんでいた日本の古来の短歌を新しい思いで見ることが出来たが、奥の深さはここに書ける段階ではない。

ただこの本を読んで 色んな意味で楽しかったし視野が広がった思いだ。
明治という時代 熱気にあふれていたのだろうな。

テレビ放送開始2010/02/01

ピンクのシクラメン  水彩

朝、ラジオの「今日は何の日」で、昭和28年2月1日はテレビの放送が開始された日と言っていた。

それで遠い日のことを思い出した。
昭和28年といえば、 終戦から8年、朝鮮でのアメリカの戦争の影響で日本も少しずつ豊かになりかけたころだが、まだ若い所帯ではテレビは高値の花だ。 20万~30万円、若いサラリーマンの年収に匹敵した。
近所の同じくらいの年齢の主婦同士のお喋りで、
「ご近所の○○さんのお宅はテレビ買われたんだって」
と話題になるくらい購入できる家は少なかった。
今朝のラジオでによると、その頃はNHKの1局だけで放送時間も日に4時間だったそうだ。

2年くらいしてだったろうかお隣のお宅にテレビが入り、見せてもらった記憶がある。 その時たまたま来ていた70歳過ぎの伯母も一緒に見に行ったが帰ってから「映画と変わりない」と面白くなさそうな感想を洩らしたのが可笑しかった。

我が家でも無理をして思い切って買ったのはそのまた2年くらい後だ。
コロンビアので大きさは14インチだったと思う。 価格も随分安くなっていた。
据え付けに男性が3人も来てアンテナの向きとか据え付けの場所に時間をかけたが映りが悪い。 結局原因は長いコードを途中で丸めていたせいだったらしい。 今では考えられないくらいデリケートだった。

まだない家が多かったから我が家は毎日子どもたちの友達で満員だった。 最初の頃の放送の内容は殆ど記憶に残っていないがプロレス、大相撲などのスポーツ中継が多かったと思う。
「ジェスチャー」「てなもんや三度笠」「連想ゲーム」「夢で逢いましょう」などはもっと後だろう。
今上天皇と美智子さまのご成婚でどっとテレビは普及した。
昭和39年のオリンピックは本当にテレビで楽しめた。

1926年(昭和元年)には高柳健次郎氏が世界初の電子式ブラウン管を発明、「イ」の字の映像を映し出した話は有名だ。
ドイツでは1935年のベルリンオリンピックを初めてテレビで中継した。
日本のテレビの放送がこんなに遅れたのは戦争のせいだろう。

スケッチ2010/01/31

水彩スケッチ 公園にて

新しいカメラを提げて公園を散歩するようになってスケッチもしたくなった。
新年になると今年こそはと色々考える。 毎年思うだけで続いた試しはないのだが・・・。
2010年は絵をもっと描きたい、アトリエに行った時だけでなく家でも描くようにしたいと思った。 出来るだけ外に出てスケッチしたい。
アトリエでは年に2回春秋にスケッチ会があるが、思うように描けなくて歯痒い。 枚数描けば何かが掴めるかも知れない。

ま そういう訳で昼前に公園に出掛け、広場の日当りの良いベンチに腰掛け空の雲と裸樹を描くことにした。 水彩で雲の形を白地に残して青空を描く。 それから大きな樹木を5〜6本、葉を落とした枝は繊細で美しい。 その横に体育館と後ろに新築のマンション群、建物は好きじゃないから苦手だ。 マンションはないことにして体育館だけは仕方なく描いたが愛情が無いから変になってしまった。
1時間あまり描いていると寒くなってきて、まあまあの所で切り上げた。
家に帰って壁に立てかけ一寸遠くから眺める時はドキドキする。
「う〜ん やっぱり体育館がまずいな」
全体に弱いから竹ペン使って墨汁で強調しよう。 パステルで色を強調しよう、と1時間くらい手直しした。

残念ながら失敗だった。 痛い教訓、スケッチは現場で描いたのが、描き足りないみたいでもやっぱり最上だ。
ま それが解っただけでも良かった。 何度でも描けばいい。

最初に描いた白く残した雲と青空は私にしてはイイ感じってことでそこだけ添付しました。

パズル好き 数独2010/01/30

考える

土曜日の朝日新聞のパズル面を楽しみにしている。
どの新聞や雑誌にも同じような欄があるようだが、私はここで初めて数独というパズルを知った。
何年になるだろう、それ以来ず~っとこれにハマったままだ。

1~9の数字を重ならないようにマスを埋めていくだけの単純なゲームだが、難易度に応じて星★☆☆☆☆一つから★★★★★五つまである。 予め書き込まれている数字の数と場所で難易度が決まる。

★3個はまあ 解くのに時間はかからない。
★4個になると なかなか 手強い。 長時間楽しめる。
★5個は 難しい! 九分通りマスを埋めて最後に間違ってた時の落胆!
また初めからやり直すが、試行錯誤による解決だけは絶対しないで、あくまで理詰めでいく事にしている。

こういうのって、その日の体調というか、頭の働きの調子がよく解るものだ。 全然ダメだったのが翌日ななるとサッと解けたりするから面白い。

先日は★3個で 案外時間かかって脳も老化してきたかなと悲観的になった。  パズル遊びで一喜一憂するのは如何なモノかと思いつつも。

さて 今日の数独は4つ星! 今夜が楽しみだ。
    (数独はバッドに入ってからと決めている。)

末っ子2010/01/28


昭和初期には子どもの数が多かった。
小学校の友達も5~6人兄弟姉妹がいるのが普通で、私のような3人は少ないほう、まして一人っ子は珍しかった。
子どもの頃は末っ子って損だなあと時々思い、ちょっと一人っ子を羨ましく思ったこともある。

5歳上の姉は派手な存在で明るく母の自慢だったし、兄は男の子というだけで父に期待され特別扱いだった。
ちょっと離れて生まれた私は手のかからない寝てばかりの目立たない子だったそうだ。

我が家は平等を建前にしていたから「お姉さんだから我慢しなさい」「お兄ちゃんでしょ」なんて言葉は聞いたことがないし、私も年で差別されるのは不当だと思っていた。
だが年齢による能力の差は仕方がない。 ゲームをしても、相撲をしても負けてばかりだ。
面白くないから一人で本を読む癖がついた。

女学校4年くらいの時に姉が結婚をして家を出、すぐに兄が遠くの高校の寮に入って私一人が家に残った。
急に家の中ががらんとして淋しくなったが待望の一人っ子になった喜びも有った。
一番広い部屋に姉と兄と私の勉強机ををコの字に並べ真ん中にでんと座り、全部自分一人で使えるぞ! と喜んでみたのも束の間で、空しさのほうがこみあげてきた。
その1年後に私も寮生活するために家を出た。
きょうだいが一緒に暮らす期間なんて短いものだ。

大人になってから考えると末っ子で一番得したと思うようになった。
子どもの時から注目されない分、自由に気楽に好きなことをしてきたし、大人になってからは、姉が母の支えになってたし、兄は父が早世したから家の責任を負ってくれていた。
末っ子の私が好きなように人生を歩めたのは姉、兄がいてくれたからだと感謝している。 子どもの頃の思い出話をしたりして矢張りきょうだいがいて良かったと思ったのに数年前に二人とも逝ってしまった。