ヤミ市2011/01/11

油彩(10号)
敗戦後の何年かの都市での生活はヤミ市を抜きにしては語れない。戦災に遭わなかった京都の中心部でもちょっとした空き地にヤミ市が出来て一種独特の賑わいを見せていた。
雑炊の丼一杯が幾らだったろう? 寮の食事でガマンできない時は並んだ。 怪しげなものだったな。
進駐軍が来る前に焼け残った軍需工場が放出した物資や農村地帯から統制の目をくぐって運んで来た食糧などあらゆる品が高値で売られていた。帰還して来た一部の若者は白いマフラーを靡かせて闊歩し、道端では白衣の傷痍軍人が歌って通行人から小銭を投げてもらっている。 無法地帯だったが危険な感じも無く我々も友達と連れ立って運動靴などを買いに行きいっぱしに値切ったりしたものだ。

卒業してから父が亡くなり、山奥の父の生家を兄と訪れた時に乗り継ぎで時間待ちの間に訪れた姫路城の前のヤミ市は大きかった。
国鉄の駅から城前の広場まで続いていた記憶がある。

やがて占領軍と政府とで統制され徐々に廃れて行った筈だが、私の結婚した昭和25年にはまだ少しだが残っていた。
新婚生活は本当に苦しくて、私の遣繰りも下手だったのだろうが給料日の前何日かのために結婚支度に自分で仕立てた衣服をヤミ市に売りに行った覚えが有る。その頃流行していたチェックの赤いプリーツスカートでまだ一度も穿いてなかった。
闇屋の小父さんがいい人で結構高値で買ってくれたっけ。
無論家族には内緒だった。

あの頃お金がないのは皆一緒だったから悲壮感なんて無く楽しい想い出のほうが多い。

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

※投稿には管理者が設定した質問に答える必要があります。

名前:
メールアドレス:
URL:
次の質問に答えてください:
干支で寅の次は何でしょう?
(平仮名3文字でお答えください)

コメント:

トラックバック