結核の想い出2010/12/01

皇帝ダリア
「坂の上の雲」の続きが始まる。
去年は「1年後 生きてるかどうかわかんないよ」とぼやいたが
、いろいろあったものの無事生きている。
今 アンコール放送を見ているがやっぱり見応えあるなあ。

正岡子規の結核闘病を見ながら戦前のことに思いを馳せた。
肺結核は常に身近な存在で何時罹ってもおかしくなかった。
私も女学校2年ごろに軽い肺浸潤で休養し、それで幸い免疫が出来たようだ。

父は40歳前の頃だったろうか何ヶ月か家の一室でじっと寝ていた。
軽い症状だったらしいが厳重に家族と隔離していて、当時来たばかりのねえやさんが「お暇下さい」って帰った。それほど世間では恐れられていた。

本家の従姉が良縁に恵まれて、母に嬉しそうに報告に来た直後、田舎で倒れたと知らせが有って父が夜行で飛んで行ったが、翌日帰ってきた父の顔は暗かった。
「結核性脳膜炎で助からない」 と沈痛な声だった。
早く父を亡くして親戚の世話になって二人の弟の面倒見る優しいお姉さんだったのに。 やっと幸せそうな顔を見せてくれたのに。

父が面倒見ていた従兄弟もこれから独り立ちすると希望に溢れていた時に結核と診断されて入院した。
父は結核が専門だったからすぐに病状を聞きに行き帰宅した表情は深刻だった。 難しいと呟いているのを聞いてしまった。
半年ほどで亡くなった。
前途に希望を持った青年達が結核の犠牲になった時代だ。

夫の弟さんには会ったことが無いが、義母からよく話を聞きくと1歳違いで秀才だったらしい。 年子の二人がお揃いの中学の制服で並んだ可愛い写真、旧制高校のマント姿、そして同じ大学に進んで義母の生き甲斐だったようだ。
その弟さんが在学中に肺結核になり卒業してすぐに亡くなった。
葵祭の日だった。
義母にも夫にも彼が生きていてくれたらどんなに心丈夫だったろう。 夫はあまり語りたがらなかったが。

子規 不如帰 の言葉も忘れそうな世の中になって それだけでも恵まれた時代になったと思う。

メタセコイア並木を2010/12/02

メタセコイア並木と桜広場
昼前、スケッチしたくなって簡単な水彩道具を抱えて表にでたら友人にバッタリ出逢った。
「これから足慣らしに歩きに行くんだけど カメラ如何が?」
「ええ いいわよ」
「スケッチ道具も一応持ってきたんだけど」
彼女も取りに帰って二人で公園に向かった。
少し前に息子さんからデジカメをプレゼントされて一緒に撮りに行こうって言ってた矢先に私の入院騒ぎだったのだ。
ピンクの可愛いカメラを初めて見せて戴いた。

メタセコイアを陸橋の上から撮る。 堂々とした樹形と金色を底に秘めたような褐色が美しい。
「デジカメって惜しげ無く何枚も撮れるからいいでしょう」
とちょっと先輩ぶった。

一昨日は疲れて行けなかった桜広場まで足を伸ばした。
90歳の先輩に負けてられないって気持ちだ。
もしかして桜の紅葉が見られるかと期待してたのに見事に黒い枝だけになっていた。 よく見ると小さな莟の芽がかすかに脹らんでいる。
季節の歩みは待っていてくれない。

垣根のピンクと赤のサザンカの花が満開。
道端には黄色いツワブキの花が。
気の早い水仙もチラホラ咲いている。

二人で写真を撮りまくっているうちに空が曇ってきてうすら寒くなる。
最後に銀杏通りにさしかかったが、もうすっかり銀杏の葉は落ちて地面に黄色い絨毯を敷いた様だった。

結局、スケッチは出来なかったが久しぶりのお喋りを堪能して帰り着いて歩数計を見たら7千歩近く歩いていた。

日々是好日

銀杏の落ち葉を見て2010/12/03

銀杏並木の黄色
道いっぱいに広がった真っ黄色の銀杏の落ち葉を見ていると、何故か小学校の頃を思い出す。

銀杏の葉を使った図工の宿題を子供部屋の窓際の勉強机の上で作っていた光景が他人事のように目に浮かぶ。
スカートを広げたような形を生かしたくて画用紙に散らして糊で貼付けた。 
クレヨンで描き加えたが何かもの足りなくて もう1枚作った。

小学生の頃の私は図工は苦手の部類だったな。
絵の先生は独立系の油絵が専門で小学校の表玄関を入ったとこの吹き抜けに大きな風景画が掛かっていた。
小学生には怖い感じの先生で滅多に褒められたことがなかった。
クレパスで玩具の機関車を写生した時に胴腹に白いハイライトを強く入れたら
「ああ 少し解ってきたようだね」
と通りすがりに言われて凄く嬉しくて未だに覚えているくらいだ。

姉は絵が得意だったから、銀杏のコラージュ?を2枚見せて
「どっちが いい?」
姉の意見を聞くなんてホント珍しいことだったが、姉は無造作に
「こっち」
納得がいかなくて手を加えてもう1度聞くと
「うん それならあっち」
私が好きな方が解ったのだろう。
銀杏の黄色い葉っぱをみるとあの時のことが思い出されるのだ。
じゃれあうような姉妹じゃなかったけれど、私は姉は特別の存在と思っていたし、50歳過ぎた頃からは本当に仲良く何でも話し合う仲になった。

テレビで温かい思い遣りに満ちた家族愛を見ていると
「うちは 随分違ってたな」
でも それで淋しいと思ったことはない。
父親が学校参観に来るなんてこともなかったのは時代の違いだろう。
心の奥での思いは信じていたが、総てに目が行き届いたら息詰る様な気がするのではと思うのは私が冷たいのかな。

銀杏の落ち葉から 大昔のことを思い出した。

おまけの入院2010/12/07

胆石で夜中に急きょ入院してから24日、無事に退院した。
石も安定して食事と生活習慣に気をつければ、後は歩いて体力回復を待てば良い。
その筈だった。

退院1週間の土曜日の診察で安心して、3カ月分のお薬を抱えて帰った。

次週も快調に行動範囲を広げたが時々胃に不快感を。
気持ちの弱さと自分を責めた。

3週間目の土曜日の早朝、異変が起きた。
朝食後、激しい腹痛に襲われて息子家族に連絡、そのまま病院へ。
全てがラッキーだったとあとになって皆さんに感謝いっぱいだ。
胆石が膵臓に影響して急性膵炎を引き起こしたらしいが、発見と処置が早く、
大事にいたらなかったと。

ともかく、おまけの入院は年明けまで掛かりそうです。
また皆様にご心配戴くと申し訳ありませんので事情を書きました。
再会を楽しみに静養します。