春近し2011/02/01

春近し
今日から2月、すこし温かく感じる日射しに誘われて近くの公園の白梅を観に行った。
民家を保存して周囲に小さな植え込みやミニ野菜畑で田舎の風情を出している一郭に小さな白梅が植わっている。
思った通り満開に近かった。

桜のような華やかさはないが凛とした姿は何時見ても清々しい。
ともすれば病後の不安で落ち込みそうになる今の私には何よりのエールを貰った感じだった。

すぐ傍の小さな溜め池に薄い氷が張っていて、溶けた水面に民家の屋根と白梅の木が映っていた。
冬の名残と早春を告げる景色が見られて良かった。
小さな散歩、私の春も近そう。

山茶花の絵2011/02/02

山茶花?
色紙の整理をしていたら大昔描いた山茶花の絵がでてきた。
落款も入れてないから習作だろう。
拙いけれど一生懸命さが伝わって来て我ながら微笑ましくなる。

山茶花は椿に先駆けて咲くけれど花季は10月から2月とあるから想い出のよすがに添付しよう。
そう思い付いてしげしげと眺めたら天地が判らない。
中途半端な構図だな。 まだ女学生だったから仕方ないか。
花は下向きの方が自然かな。

よ〜く見ると雄蕊の塊が椿っぽいことが気になった。
山茶花と椿ってどう違うの?
googleで引いたら椿も山茶花もいっぱいの種類が出て来た。
よく似ているのが多い。
私と同じ疑問に
葉の縁がギザギザなのが山茶花とか、
雄蕊の形状とか、花の落ち方が違うとか・・・。
でも
「新しい品種が混合して 区別は判りません」
に納得させられた。

両方とも種類の多いのに吃驚する。
前住んでいた家の庭には大きなヤブツバキが有ったけれど垣根の山茶花とはハッキリ一線を画していて疑問に思ったことはなかったからとても勉強になった。

それでこの絵はどちらか判らないけど思い込んでいた通り山茶花にしておこう。
花を描くのは好きだが育てることにはあまり興味がないほうだ。

節分の想い出2011/02/03

鶴岡八幡宮の豆まき
我が家の洒落たカレンダーの何れにも今日が節分と記されていない。
だんだん居間から日本の伝統行事が忘れられて行くようで淋しい。
もっともスーパーに行けば半月前くらいから節分の風習を大きな音声で流していて関連の品を売ってはいるが。

昭和初期の住宅街では夜になると
「鬼は外 福はうち〜」
の男性の掛け声が方々から聞こえて来て、雨戸を開けて庭に向かって豆を撒いている情景が伝わって来た。
我が家でも節分の日は母とお手伝いさんが二間続きのお座敷の襖をはずして、畳を丁寧に拭き清めていた。
日が暮れて次の間に家族が座って待っていると、着物姿の父が丸いお盆を抱えて上の間に入場して、おもむろに
「福は〜 うちぃ〜」
と芝居がかって お盆の豆を子供の方に撒く。
煎った大豆だけじゃなくてミカンやキャラメルや他のお菓子もあって、子ども達は袋を持って待ち構え拾った。
私はまだ幼かったからお手伝いさんが一生懸命手伝ってくれた。
お手伝いさんと言っても高等小学校でたばかりのお姉さんだ。
どうして自分の分を取らないの? と後でムリに上げた覚えがある。 いつも可愛がってくれる大事なお姉さんだった。

お菓子を撒き終わった後は雨戸を1枚開けて暗い庭に向かって
「鬼は〜そとぉ」
と2〜3回撒いて終わりだった。
末っ子の私が小学2年くらいになるとこの行事も終ったように思う。

歳の数だけの炒り豆では物足りなかった昔が嘘のよう。
去年までは新しい風習の恵方巻きの丸かじりが楽しみだったが今年は食事制限で食べられないのが残念だ。

添付の写真は4年前、偶然鎌倉の八幡様にお参りして節分の行事に出くわした時に撮ったものです。
小袋に入ったお豆を私も拾いました。

立春の日の独り言2011/02/04

緑の洋館の脇に積まれた薪と車輪がお洒落!
立春の今日は温かい日射しが射し込んで暖房が要らない。
でも本格的な春が来るまでは外出は自重しているが無為に過ぎて行く時間が勿体ないと思うようになった。
時間を持て余すなんて初めての経験かな。 何時も追い回されて退屈するなんてことなかったもの。

少し実用的な仕事を片付けようと昨日は食品収納庫(大げさ)と薬棚を整理して、消費期限、賞味期限切れの品をどっさり廃棄した。
勿体ないがりの性分が病気してふっきれた。
それでも、これ鳩や野良猫だったら喜ぶだろうなと心が傷むが絶対してはいけない。
余分なものは買わないようにしよう。

立春と言う言葉に何となく明るくなる。
少し勉強しようかな。 去年の家計簿をエクセルで纏めていたら忘れて上手く使えない部分があった。
参考書を買うのは好きだから揃っている。
基本のキのおさらいをやろう。 こんな退屈な機会は滅多にないだろうから。

その次はCGへの再挑戦かな。
何となく昔浜辺で描いたスケッチが目に留まった。

コーヒーの想い出2011/02/05

深夜
今度の病気でコーヒー、紅茶、緑茶が飲めなくなって3ヶ月が経った。
飲めないことはあまり辛いと思わないが振り返れば長い付き合いだったな。
昭和初期の子どもの頃も勿論紅茶も珈琲も普及していた筈だが、不思議と紅茶の想い出がない。
パン食が普及していなかったからかも。
でもケーキには飲み物は何だったのだろう。多分私が覚えていないだけなのだろう。

コーヒーのことははっきり覚えている。
昭和10年代のころ、何故か両親がコーヒーに凝りだした。
白くて青い縁のついた大きな琺瑯のポットに湯を沸かし、ネルで縫った10センチ大の袋にコーヒー粉を入れてポットの中に吊るして暫く弱火にする。
コーヒータイムは父が家に居る夜の8時頃だった。

昔は5時過ぎには夕食だったから、8時に下から佳い香りが漂って来て
「コーヒー入ったわよ」
と母の声が階段下から聞こえると嬉しくて兄妹3人が駆け下りたものだ。
お砂糖いっぱい入れて飲んだと思う。 幸せ感があった。
今思えば、女学生になるかならずの子供にコーヒーをよく飲ませたものだと妙な感心をする。

やがて太平洋戦争に突入してコーヒー豆も本場の紅茶も消えた。
大豆を黒く煎った代用コーヒーが戦後暫くまで続いたが似て非なる代物だった。
その後遺症だろうか夫も私も大のコーヒー好きで毎日夫が上手に淹れてくれたっけ。
コーヒーミルで挽いて漂う香りは平和の象徴に思える。
ま 今はその香りを時々嗅ぐだけでも満足だ。

エプロン2011/02/06

冬野菜とビーナス
毎日野菜料理に取り組んでいる。
白菜、キャベツ、ブロッコリー、ほうれん草、春菊、大根、蕪、人参、里芋、馬鈴薯、玉葱、薩摩芋・・・・などなど羅列しだしたらきりがない。
油脂を使わない料理法には苦心するが献立の変化は楽しめる。
料理に精を出すのは6年ぶりだ。 自分一人の為になってからは無精になってたな。

家のなかの整理をしていたらエプロンが出て来て(絵を描くときの為に買った?)付けてみたら何だか気持ちがシャキッとした。
割烹着とかエプロンの類いは主婦然として若い時から敬遠して来たのに心境の変化はあるものだ。 
あっさりしたデザインも気に入った。
バンダナでも頭に巻いたらプロみたい。

病院でも最近の看護師さんは明るい色と柄のエプロンを着用していて可愛くて患者は心が和んだ。
エプロンは気に入って毎日着用していると現役に還ったようで元気がでてきた。

野菜の絵でも添付しようと捜したら大昔に描いた油絵を見つけた。 題名はVenus、それにしては表情がもうひとつだし野菜との組み合わせも合わないな。
何となく電子辞書でビーナスを引いてみた。
 「ローマ神話で菜園の守護女神、のちギリシャ神話のアフロディテと同一視され美と愛の女神。」
知らなかった。 当時このモチーフを組まれた先生はご存知だったのですね。
野菜をいっぱい食したらビーナスのように美しくなれるってことかしら。 手遅れだけど。

退院して40日2011/02/07

パンジー
1ヶ月ぶりに病院へ診察して貰いに行って来た。
珍しく割合空いていて1時間ほど待って呼ばれた。
久しぶりの院長先生のお顔が懐かしく緊張が解きほぐされる感じだ。
体調や不安に思っている症状を手短かに話すとデーターを見ながら真剣に聞いて下さった。
一番気になっている膵臓の今の状態を伺うと
「完治したと一応考えていいでしょう。食事制限ももっと緩和していいですよ」
嬉しくて元気が湧いて来た。
脂肪制限は続くが甘いものはいいですよってことで夢のようだ。

臆病だから自己規制は急には止められないだろうけれど徐々に広げて行こう。 甘いものやマヨネーズやバターなども。
体力が戻れば行動範囲も広げて、そのうちアトリエにも行けるかな。

車で迎えに来てくれて病院でもずっと付き添ってくれた嫁(この言葉嫌いなのだが)もとても喜んで
「帰りに美味しいお蕎麦屋さんに寄っていきませんか?」
薬局で二ヶ月分のお薬を貰った後、少し離れたお蕎麦屋さんで京風のお野菜たっぷりのおうどんを注文した。
外食できるなんて思わなかったな。 美味しかった。

病気して家族の温かさを沁みじみ感じる。
特に彼女には世話になって感謝の思いでいっぱいだ。

思い出の家2011/02/08

夕日
今までに引っ越した経験は18回と書いた日の夜に胆石の激しい腹痛に襲われて入院した。
そろそろ続きを書こうとおもう。

小学4年生から昭和19年に進学して寮に入るまで過ごした海の近くの川沿いの家は子供時代の思い出が一番多く詰まっている。
「細雪」にも出てくる阪神風水害に遭ったのもこの家だった。
上流で堰が切れて山に近い住宅街に土石流が溢れたので下流の我が家は被害を免れたが悲惨な状況は焼き付いている。

川沿いの1列だけが住宅で裏には名産の酒蔵が続いていて2階の子供部屋の窓から杜氏さんたちの作業ぶりを見るのが楽しみだったな。 前の川は水無し川で季節になると酒を絞る紫がかった茶色の袋が整然と並べて干されていた。
前の道を酒造に欠かせない宮水と言われる名水を運ぶ馬車が通る。 木製の四角いタンクからは水が滴っていた。
同じ道を春になれば杜氏さん達が一升瓶を何本か抱えて郷里に帰って行く姿が有った。

気が向けば飼い犬と浜辺を散歩して夕暮れ空に舞う蝙蝠を見たっけ。
小学校の高学年になれば反抗心で日曜学校をさぼり、人気のない防波堤に腰掛けて打ち寄せて飛沫を高く挙げる波を見つめて2時間を過ごしたこともある。
屋根裏部屋から鉄格子越しに夕日の赤さと沈んだ後の空を眺めて
永遠て何だろうと考えているうちに絶望感で涙が流れたのもあの家だった。

女学生になると毎日曜日の午後は、長い酒蔵の間の道を歩いて日本画の先生のお宅に通った。 人けがなく何時も怖くて緊張していたが黒い屋根に白い壁の酒蔵が続く情景は美しかった。
姉の結婚の準備で華やいだのも、兄が地方の高校に進学して家をでたのも、数年後に学徒出陣で高校の友人がストーム組んで送ってくれたのもこの家からだった。

一番多感な時期、そして家族がいるのが当たり前だと思っていた時期を過ごした家での思い出は尽きない。
振り返ると親子兄妹が一緒に過ごす年月って短かく貴重なものだ。

次に引っ越した家のことを書くつもりがまだ留まってしまった。

終戦を迎えた家2011/02/09

疎開先にはこんな情景も
姉が嫁ぎ兄と私が進学して家を離れて母は淋しくなったとこぼしていたそうだ。
戦況は益々悪くなり広い庭には花々の代わりにカボチャなどが植えられた。 兄が出征した後、父が地方の小さな町の軍需工場の敷地に新しく建てられた病院に転勤になった。
都会好きの父だったが疎開を兼ねて受けたのかもしれない。

土地の有力者の別宅を借りて引っ越した。裏は一面の田圃が広がっていて殆どが農家だ。
家は京都の町家風で玄関の引き戸を開けると裏まで広い土間が続いていて途中に幾つか格子戸がある。
最後に台所、流しと大きなお釜や大鍋がかけられる竈が3つ並んでいた。 板の間にはテレビの旧家で出てくる様な大きな食器棚が作り付けられていた。
座敷から眺める中庭も真ん中に井戸もあり植木も整っている。

疎開と聞いて寮から帰ってみて、こんな立派な普請の家に住むのは初めてだと感心した。
新築も新築、二階は内装がまだ出来ていなくてガランと空いていたが それがまた楽しくて学徒動員で通っていた工場が被爆して自宅待機になってからはその2階に机を置いて広い勉強部屋にしたものだ。

学校を卒業して結婚するまで住んだこの家の思い出もいっぱいあって一回には書き切れない。

田舎暮らし2011/02/10

野原に咲く水仙
海辺の家から田舎に引っ越した時は私は学校の寮から軍需工場へ通っていたから詳しい模様は知らない。
既に発病していた母と二つの病院を掛け持ちしていた父と二人では大変だったろう。 人手も頼めない世情になっていた。
休日に訪ねると、内装していない2階に荷物が山積みで蔵書は紐で括られたまま転がっていた。

引っ越して間もなく、前の家は大空襲で燃えてしまったそうだ。
知り合いの方に
「お宅は風水害の時も引っ越して無事だったし、空襲も逃れてほんとうに運がいいですね」
と羨ましがられたけど申し訳ないみたいと母が言っていた。

田舎暮らしは馴れないことが多かった。
工場が爆撃で焼失して自宅に帰り、嫁いだ姉も空襲が激しくなったので赤ちゃんを連れて帰って来た。
母は手術のため大阪の病院に入院したから姉と私が家事をしたが、水道 ガスのない生活は初めてだった。

裏の離れた所にある井戸でバケツに汲んで両手に提げて流しの横の水槽まで運ぶのは私の役目だった。
その水を柄杓で掬って炊事や洗い物をするのもコツが要る。 蛇口の有り難さが判った。
流しの水槽は5回くらい往復すればイッパイになって1日持ったがお風呂の水汲みは大変だったなあ。

七輪に火を熾すコツも覚えた。
ご飯は大きなお釜を竃にはめ込み、下に開いた焚き口に藁を突っ込んで火を付け、吹きこぼれて来たら藁を叩いて残り火だけにする。
藁一束で1升くらいのお米が炊けた覚えがある。
これはチョッと面白かった。(やがてそのお米もなくなったが)
でも電気が来てただけマシで今では考えられないくらい不便で労力ばかりが要った。

戦後日本が復興し始めて洗濯機や炊飯器や電子レンジなどが出現すると飛びついたのはあの時の苦労が身に染みていたからかもしれない。

そういう不便さはあっても戦時下の殺伐とした都会に比べて、裏の井戸から見渡す田園風景には心癒された。
今でも田舎という言葉の響きは好きだ。