昭和の風景(師走)2013/12/19

来年の干支
今年も後十日ほどと思うと感慨無量だ。
子供の頃、つまり昭和一桁のころの師走って特別の雰囲気だったな。

畳替えは秋の終わりに済ましていたかも知れない。
殆どが和室で子どもが遊び回るから毎年畳み職人さんが台を持ち込んで新しく張り替える。
次の年は裏返して仕立て直して一年使う。
長い頑丈な針で縁を縫い付けて行く作業が面白くて傍にくっついて眺めていた。

師走になれば「てったいさん」と呼ばれていた屈強な男性が二人程で家中の掃除をしにきてくれる。
天井などの煤払や床下や女手だけでは手の届かない所はいっぱいあった。
母は陣頭指揮でピリピリしていたから父と子どもは邪魔にならないように避難してたものだ。

暖房器具は火鉢と炬燵くらいでその灰を新しくするのが父の役目だった。
届けられた藁束を庭の隅で焚火する。
それにあたりながらノンビリと父と話し合うのが楽しかった。
真っ黒になってまだ藁の形状を留めているのを家中の火鉢やあんかの灰色の粉になっていたのと入れ替えると新しい年が来るって実感したものだ。

年末にはクリスマスの行事も有ったから結構忙しかった。
父の田舎からはカマスに入った丸いお餅と、干し柿などが送られてくる。
舗装されていない道路を大きな門松を乗せた大八車が行き交っていた。
町に一軒だけあった洋服屋さんが姉と私のために生地見本を持って寸法を採りに来てくれる。 
師走は洋服店も忙しそうだった。 既製品など殆ど無かったみたい。
姉と違って興味の無かった私は母任せだった。

晦日、大晦日になればおせち造りで台所はてんてこ舞い。
私もゆで卵を裏ごししたり、擂り鉢を押さえたり少しは手伝った覚えが有る。 お祭り騒ぎで楽しかった。

師走の緊張した喧噪さと一夜明ければ、空気が一変してそれぞれ正装して座敷に行けば父母がにこやかに大きな火鉢に手をかざしている。
その格差に新年を子ども心に心地良く引き締まった気持ちにもなったものだ。

戦争に突入する前の平和な風景だった。
私は中くらいの平凡な家庭だったけれど日本全体から見れば恵まれていた。
小学校の低学年でも不平等、格差社会は漠然とだが感じていた。

コメント

_ S.A ― 2013/12/19 20:52

子供の頃、師走というよりは冬、もうすぐ冬休み、お正月が来る。福島の阿武隈山脈の麓の寒い冬を思い出します。
ブログ主様の絵はシャガールの雰囲気がありますね、思いがけない一面を見た気がします。
勝手な感想ですが、ご容赦ください。

_ EPOM ― 2013/12/20 04:33

美海さん
メリーゴーランド ピンクの可愛い色合いになぜか哀愁が

姉二人とは20ほど離れているといつかお話しました
昨日次姉が言いました
「私の名前は戦地からお父さんが葉書で書いてきたのよ」
当然私は居ない知らない・・・
そういう話をもっと聴かせてよと言いました
「何を知らないか解らないわ」ウフフそうですね
姉は同級会に出かけると
「あのころはあなたのお弁当のおかずが羨ましかった」
そうたびたび言われるそうです
気がつかなかった幼さと気付いた幼な心
差のあることです
しかし今はそれぞれに荷を負って下ろして
楽しいひと時を過ごすのだそうです。

私はなぜか一度も参加せずにきてしまいました
大人になってからできた友人が安心なのです。
それはお互いの生活や心持の背景を
忖度できる技ができたからなのかもしれません。

_ むー ― 2013/12/20 10:26

昔は年末はいろいろ入れ替わって新鮮なきもちになる
めりはりのある暮らしだったのですね。
いまは一年中お誕生日、クリスマス、お正月きぶん
ですけれども。
昭和40年代生まれの私にとっても、
昨今のコンビニやファミリーレストランの盛況は
少々おそろしいほどです。
家族合同で盛り上がる気持ち、
すてきですね。

_ kazu ― 2013/12/20 11:34

こんにちは、美海さん。
時代は少し違うけど、子どもの頃思い出しました。
確かに、当時も格差社会ありましたね。
戦後間もなく、小学校の集合写真見ると、
みんなみすぼらしい格好してました。
父がキリスト教の牧師をしていたので、アメリカの宣教師団体の
救援物資の世話になりました。
その点では恵まれていたかもしれません。
ただ当時子どもの下着にブリーフなどなく、
身体検査の時、「女ものはいてる」なんてからかわれたこと思いだします。
こちらもむきになって、「ちゃんと前あいてるんだから」といいかえしました。
今は昔の話です。

_ 美海 ― 2013/12/20 19:23

S.Aさん
>福島の阿武隈山脈の麓の寒い冬を・・
いいですねぇ! 詩情が心に沁みます。

この木馬の絵、昔描いたのがヒョコッと出て来ましたぁ。
シャガール大好きですから嬉しいです。

_ 美海 ― 2013/12/20 19:47

EPOMさん
来年の干支はウマ、それで古い悪戯描きを添付。
でも今見るとチョット好きです。
二十歳違うと知らないお話がいっぱいでしょうね。
私にお近いお年頃かしら。
当時の小学校では家庭の貧富の差は激しかったです。
それでも皆、仲が良くて一緒に遊び回りました。
女学校に進学出来ない友達も多くて哀しかったですね。

私もクラス会は苦手でした。
出席するようになったのは子育て終った頃からです。

 内緒話(あの傘ステキ! 痺れましたぁ)

_ 美海 ― 2013/12/20 20:00

むーさん
昔は不便で質素な暮らしだったからハレの日を特別に大事にしたのでしょうね。
思い出になると総てが懐かしく好いことばかりが浮かびます。
でも今の生活の方が快適、勉強したければ殆どの子が進学出来るだけでも幸せだと思うけれど、違った不満もあるのでしょうね。
本当の幸せって何だろうって考えるときが有ります。

_ 美海 ― 2013/12/20 20:17

kazu さんの頃でもそうでしたか。
今考えても戦前の格差は酷かったです。
私は幼時から母にくっついて牧師さんのお話を聴いて人間に上下はないと信じていましたが、現実には農村の貧困、都会では職業による収入の格差で子どもを進学させられないなどなど。
子どもながらに不公平だと感じていました。

固い話になっちゃいましたが最後のエピソードに笑ってしまいました(^^

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