新年を迎えて2014/01/01

2014元旦
明けましておめでとうございます

 拙いブログを見て下さった方々
 温かいコメントを下さった皆様
   ほんとうに有難うございました
    たくさんの元気を戴きました
       今年もどうぞ宜しくお願いします。

    ーーーーーーーーーーーーーー
無事に2014年を迎えられたとTVのゆく年くる年を見ながら思う。
何回この映像を見て来ただろう。
NHK紅白の変遷も見て来たが若い時は家事が忙しくてゆっくり観られなかった。
独りになってからは、夕方までに雑用は済まして日付が変わるまでテレビに釘付けだ。
年々、知らない歌手が増えてきて紅白で初めて聴く人もあって世間が少し広がる気がして楽しい。

毎年、年頭には今年の目標とか書いてみるのだけど今年は不言実行にしよう。
口に出して遣り遂げられた試しが無い。
したいことは有り過ぎて困るくらいだけど、じっくり絞って出来ることから続けることが肝心だと今頃になって気が付くのだから情けない話だ。

とか言いながらも新しい年を迎えると白紙の画紙を前にした気分で緊張しながらも可能性を求めて楽しくなる。
佳い年を描くように努力しよう。

初詣2014/01/02

氏神さま
元旦は恒例の家族一同が集まって賑やかな時間を過ごした。
お昼過ぎから、お節料理とビーフ、サラダから始って北海道から送って戴いた大きな蟹を戴いてたら握りたてのお寿司が届く。
デザートは我が家伝来?の蜜柑の寒天、今年は一段と腕があがったようだ。
正月らしい形の美しい和菓子、ケーキ、苺と蜜柑・・・・。

2歳から86歳までの11人の話は尽きなくて記念写真を撮ってお開きになった時にはもう真っ暗になっていた。

夫が居たときは我が家に集まっていたけれど今は代替わりで私は気楽になった。
マゴ達もすっかり成人し、ヒマゴがもうすぐ3歳になる。

思いっきりお喋りして笑って美味しいものを戴いて幸せ感いっぱい。  
みんなそれぞれ結構厳しい仕事や生活に頑張っている。
2歳の子どもだって知識を逞しく吸収している。

一年に一回のハレの日、元気に集まれたことへの感謝で胸がいっぱいになった。
皆に心配かけないよう今年も頑張ることしかお返しは出来ない。

今日も良いお天気だ。
思い付いてこの地の昔からの氏神さまに初詣に行く。
バスに乗らないで歩いた。
ニュータウンが出来るまでは畑と蚕が生業の寒村だったときの小さな神社で人の気配もない。

ここに移って来た時にご挨拶に来たきりで懐かしい。
でも直ぐ後ろを電鉄が走っているし風情はなくて気の毒なようだが時代の流れだろう。
神妙に拝礼して家内安全と平和を祈念した。

昭和の風景(元旦)2014/01/03

2014年正月
箱根駅伝を観ながら今日で最後の祝い膳とお雑煮を独りで食す。
もう来年からは家族が集まる元旦だけで良いと思いながら子どもの頃の正月のお情景が浮かんだ。

昭和一桁のころの想い出だ。
元旦だけは6時に起きて枕元に揃えて置いた晴れ着を着る。
下着からすべておニュウで年の改まったことを子ども心に感じる。
客間の座敷に父は大島の着物を母は紋付の他所行きを着て大きな火鉢に手をかざしながら姉と兄と私が入っていくと、にこやかに迎えてくれる。
大きな座卓を囲んで坐ると
「おめでとうございます」
お屠蘇は年齢が若い者順だからいつも私が一番だ。
父が注いでくれる杯を神妙に頂く。 味醂で甘かった。

次はお年玉を父に厳めしく名前をばれて賞状を貰うみたいに受け取った。
至って庶民的な上下の関係のない家風なのに正月だけは皆でお芝居しているみたいでそれがまた楽しかった。
お年玉の中身は年齢の数だけの金額だ。
10歳になってやっと一円だったと思う。
そのうちに年齢プラス何円かの台がつくようになった。

お正月料理は子ども達は自分専用のお重箱に詰めてもらっている。
お雑煮は父の生家の伝統で寒ブリと根菜たっぷりの味噌仕立てに茹でた丸餅が入っていた。
両親は美味しいと自慢していたが私は苦手だったな。
味噌汁が好きでない上に、大きな餅を咽に詰まらせては大騒動していた。
結婚してから東京風のシンプルな鶏の清まし汁になったときは嬉しかった。

食事が済むと子ども達は夫々の学校に行く。
外に出るとどの家も門口に日の丸の旗がはためいていた。
黒い縞の長い竹竿の先に金色の玉を差し込み、横幅1メートルの日の丸の国旗が結びつけられている。
道に向かって斜めに立てられ町中に特別の日っていう改まった気分が満ちていた。

小学校では広い講堂に学年毎に入場して長椅子にこしかけると講壇の奥の正面の小さな扉が開いていて白いレース状の幕も途中まで引き上げられてご真影が。  厳かな雰囲気だった。
壇上の脇には見事な松の盆栽が飾られている。
講壇の下の左右には先生方が正装して腰掛けられ、音楽の先生がグランドピアノに向かっていて伴奏をされた。

今思い起こすと小さな町立の小学校なのに、鉄筋3階の風格のある立派な学校だった。
新開地で大阪、神戸の富裕層の家と有名な蔵元も多かったから町の財政は豊かだったらしい。

式が済むと子ども達は解放されて運動場を走り回って遊んだ。
午後には誘い合わせて町中を歩き回り、立派な門松が置かれたお屋敷は門も玄関も開け放されていて子ども達は玄関の名刺入れに自分の名刺を置いて用意されているお菓子包みを頂く。
 毎年、暮れに自分用の小さな金縁の名刺を作って貰っていた。

町の舗装していないベージュ色の大通りは年始回りの正装した大人が行き交っていた。
子どもは年始回りの真似事に飽きると家の前の道で羽子板を打ち合い、空き地で凧揚げに興じたものだ。

二日目からは親にくっついて親戚回りが始る。

ーーーーー
添付写真は昨日の日の出。
珍しく早く目覚めて外を見ると明るくなりかけていたので待機していたが建物が遮って7時10分頃にやっと現れた。

昭和の風景(百人一首)2014/01/04

小倉百人一首
昭和初期のお正月で忘れられないのは歌留多取りだ。
あの時代には家族皆でゲームに興じるのはお正月だけだった。

夕食が済むとお座敷で歌留多とりが始る。
父は火鉢に手をかざしながら専ら讀み役だ。
バラ取りが主だったが時には対戦もした。
子どもの折の年齢差は大きい。
小学校に上がる前は何枚かの十八番だけの上の句を覚えて必死になって取った。
 「あわじしま〜」→「いくよねざめの・・」
 「おおえやま〜」→「まだふみも・・」
好きだったのは
 「たちわかれ〜」→「まつとしきかば・・」
 「たれをかも〜」→「まつもむかしの・・」
当時の宝塚では百人一首に因んだ名が多くて
 「あまつかぜくものかよいじ・・」→「おとめのすがた・・」
天津乙女が有名だった頃だから覚えやすかった。

明治生まれの父は山奥の鄙びた村に育って8人兄妹の正月遊びは歌留多くらいだったらしく詳しくて、珍しく巫山戯た替え文句を入れたが子ども達は「また〜」と笑いもしない。
「うかりける人を初瀬のやまおろしよ はげしかれとは祈らぬものを」を
「うかりける ・・・・はげになれとはいのらぬものを」
父は歳の割に前髪が後退していた。

「こい」が「鯉」でないと知ったのは5〜6年経ってからだしそのころの歌留多の文字は変体仮名で讀み難かったが小さい頃って何でも抵抗無く覚えて一生楽しめるもんだ。

松の内には近所のお姉さんたちを呼んで歌留多会をしたり、華やかな雰囲気だった。

子どもの折の穏やかな風景は戦争の影が忍び寄る頃から変貌して行く。

2014年には2014/01/05

小さな公園にて
正月気分はすっかり消えて、さあ明日は「人生振り返り講座」の5回目だ。
「夢に現れる本当の自分」ってタイトルだから恐らくフロイトの話がでるだろうと昔、微かに讀んだ記憶のある「フロイトの夢判断」を捜したが見つからなかった。

図書館に行って
「夢と夢解釈」 ジークムント・フロイト 講談社学術文庫
「フロイトと作られた記憶」 フィル・モロン 岩波書店
「ユング心理学入門」    河合隼雄   岩波現代文庫 
の3册を取り敢えず借りて来た。
どこまで読みこなせるか心許ないけれど興味はある。

さて最近自分がどういう夢を見ているかと考えるのだが思い出せない。
明け方に確かに見た記憶は残っているのに目が覚めた途端に消えている。
明日、それのグループワークが有るのにどうしよう。

二年前に長期入院したときは毎晩生々しい夢を見て未だに忘れられないが特殊な状況下だったから参考にならないだろう。
SF小説になりそうなのとか、ミステリーみたいなの、結構長編ものでちょっと面白かった。
ま 出来れば入院生活はもう堪忍して欲しいけれど。

どういう話が伺えるか明日のセミナーが楽しみだ。

今週からアトリエも始る。
いろいろ有りそうな今年の予感! 
充実した佳い年になるよう元気に努力したい。