春近し ― 2011/02/01
山茶花の絵 ― 2011/02/02
色紙の整理をしていたら大昔描いた山茶花の絵がでてきた。
落款も入れてないから習作だろう。
拙いけれど一生懸命さが伝わって来て我ながら微笑ましくなる。
山茶花は椿に先駆けて咲くけれど花季は10月から2月とあるから想い出のよすがに添付しよう。
そう思い付いてしげしげと眺めたら天地が判らない。
中途半端な構図だな。 まだ女学生だったから仕方ないか。
花は下向きの方が自然かな。
よ〜く見ると雄蕊の塊が椿っぽいことが気になった。
山茶花と椿ってどう違うの?
googleで引いたら椿も山茶花もいっぱいの種類が出て来た。
よく似ているのが多い。
私と同じ疑問に
葉の縁がギザギザなのが山茶花とか、
雄蕊の形状とか、花の落ち方が違うとか・・・。
でも
「新しい品種が混合して 区別は判りません」
に納得させられた。
両方とも種類の多いのに吃驚する。
前住んでいた家の庭には大きなヤブツバキが有ったけれど垣根の山茶花とはハッキリ一線を画していて疑問に思ったことはなかったからとても勉強になった。
それでこの絵はどちらか判らないけど思い込んでいた通り山茶花にしておこう。
花を描くのは好きだが育てることにはあまり興味がないほうだ。
落款も入れてないから習作だろう。
拙いけれど一生懸命さが伝わって来て我ながら微笑ましくなる。
山茶花は椿に先駆けて咲くけれど花季は10月から2月とあるから想い出のよすがに添付しよう。
そう思い付いてしげしげと眺めたら天地が判らない。
中途半端な構図だな。 まだ女学生だったから仕方ないか。
花は下向きの方が自然かな。
よ〜く見ると雄蕊の塊が椿っぽいことが気になった。
山茶花と椿ってどう違うの?
googleで引いたら椿も山茶花もいっぱいの種類が出て来た。
よく似ているのが多い。
私と同じ疑問に
葉の縁がギザギザなのが山茶花とか、
雄蕊の形状とか、花の落ち方が違うとか・・・。
でも
「新しい品種が混合して 区別は判りません」
に納得させられた。
両方とも種類の多いのに吃驚する。
前住んでいた家の庭には大きなヤブツバキが有ったけれど垣根の山茶花とはハッキリ一線を画していて疑問に思ったことはなかったからとても勉強になった。
それでこの絵はどちらか判らないけど思い込んでいた通り山茶花にしておこう。
花を描くのは好きだが育てることにはあまり興味がないほうだ。
節分の想い出 ― 2011/02/03
我が家の洒落たカレンダーの何れにも今日が節分と記されていない。
だんだん居間から日本の伝統行事が忘れられて行くようで淋しい。
もっともスーパーに行けば半月前くらいから節分の風習を大きな音声で流していて関連の品を売ってはいるが。
昭和初期の住宅街では夜になると
「鬼は外 福はうち〜」
の男性の掛け声が方々から聞こえて来て、雨戸を開けて庭に向かって豆を撒いている情景が伝わって来た。
我が家でも節分の日は母とお手伝いさんが二間続きのお座敷の襖をはずして、畳を丁寧に拭き清めていた。
日が暮れて次の間に家族が座って待っていると、着物姿の父が丸いお盆を抱えて上の間に入場して、おもむろに
「福は〜 うちぃ〜」
と芝居がかって お盆の豆を子供の方に撒く。
煎った大豆だけじゃなくてミカンやキャラメルや他のお菓子もあって、子ども達は袋を持って待ち構え拾った。
私はまだ幼かったからお手伝いさんが一生懸命手伝ってくれた。
お手伝いさんと言っても高等小学校でたばかりのお姉さんだ。
どうして自分の分を取らないの? と後でムリに上げた覚えがある。 いつも可愛がってくれる大事なお姉さんだった。
お菓子を撒き終わった後は雨戸を1枚開けて暗い庭に向かって
「鬼は〜そとぉ」
と2〜3回撒いて終わりだった。
末っ子の私が小学2年くらいになるとこの行事も終ったように思う。
歳の数だけの炒り豆では物足りなかった昔が嘘のよう。
去年までは新しい風習の恵方巻きの丸かじりが楽しみだったが今年は食事制限で食べられないのが残念だ。
添付の写真は4年前、偶然鎌倉の八幡様にお参りして節分の行事に出くわした時に撮ったものです。
小袋に入ったお豆を私も拾いました。
だんだん居間から日本の伝統行事が忘れられて行くようで淋しい。
もっともスーパーに行けば半月前くらいから節分の風習を大きな音声で流していて関連の品を売ってはいるが。
昭和初期の住宅街では夜になると
「鬼は外 福はうち〜」
の男性の掛け声が方々から聞こえて来て、雨戸を開けて庭に向かって豆を撒いている情景が伝わって来た。
我が家でも節分の日は母とお手伝いさんが二間続きのお座敷の襖をはずして、畳を丁寧に拭き清めていた。
日が暮れて次の間に家族が座って待っていると、着物姿の父が丸いお盆を抱えて上の間に入場して、おもむろに
「福は〜 うちぃ〜」
と芝居がかって お盆の豆を子供の方に撒く。
煎った大豆だけじゃなくてミカンやキャラメルや他のお菓子もあって、子ども達は袋を持って待ち構え拾った。
私はまだ幼かったからお手伝いさんが一生懸命手伝ってくれた。
お手伝いさんと言っても高等小学校でたばかりのお姉さんだ。
どうして自分の分を取らないの? と後でムリに上げた覚えがある。 いつも可愛がってくれる大事なお姉さんだった。
お菓子を撒き終わった後は雨戸を1枚開けて暗い庭に向かって
「鬼は〜そとぉ」
と2〜3回撒いて終わりだった。
末っ子の私が小学2年くらいになるとこの行事も終ったように思う。
歳の数だけの炒り豆では物足りなかった昔が嘘のよう。
去年までは新しい風習の恵方巻きの丸かじりが楽しみだったが今年は食事制限で食べられないのが残念だ。
添付の写真は4年前、偶然鎌倉の八幡様にお参りして節分の行事に出くわした時に撮ったものです。
小袋に入ったお豆を私も拾いました。
立春の日の独り言 ― 2011/02/04
立春の今日は温かい日射しが射し込んで暖房が要らない。
でも本格的な春が来るまでは外出は自重しているが無為に過ぎて行く時間が勿体ないと思うようになった。
時間を持て余すなんて初めての経験かな。 何時も追い回されて退屈するなんてことなかったもの。
少し実用的な仕事を片付けようと昨日は食品収納庫(大げさ)と薬棚を整理して、消費期限、賞味期限切れの品をどっさり廃棄した。
勿体ないがりの性分が病気してふっきれた。
それでも、これ鳩や野良猫だったら喜ぶだろうなと心が傷むが絶対してはいけない。
余分なものは買わないようにしよう。
立春と言う言葉に何となく明るくなる。
少し勉強しようかな。 去年の家計簿をエクセルで纏めていたら忘れて上手く使えない部分があった。
参考書を買うのは好きだから揃っている。
基本のキのおさらいをやろう。 こんな退屈な機会は滅多にないだろうから。
その次はCGへの再挑戦かな。
何となく昔浜辺で描いたスケッチが目に留まった。
でも本格的な春が来るまでは外出は自重しているが無為に過ぎて行く時間が勿体ないと思うようになった。
時間を持て余すなんて初めての経験かな。 何時も追い回されて退屈するなんてことなかったもの。
少し実用的な仕事を片付けようと昨日は食品収納庫(大げさ)と薬棚を整理して、消費期限、賞味期限切れの品をどっさり廃棄した。
勿体ないがりの性分が病気してふっきれた。
それでも、これ鳩や野良猫だったら喜ぶだろうなと心が傷むが絶対してはいけない。
余分なものは買わないようにしよう。
立春と言う言葉に何となく明るくなる。
少し勉強しようかな。 去年の家計簿をエクセルで纏めていたら忘れて上手く使えない部分があった。
参考書を買うのは好きだから揃っている。
基本のキのおさらいをやろう。 こんな退屈な機会は滅多にないだろうから。
その次はCGへの再挑戦かな。
何となく昔浜辺で描いたスケッチが目に留まった。
コーヒーの想い出 ― 2011/02/05
今度の病気でコーヒー、紅茶、緑茶が飲めなくなって3ヶ月が経った。
飲めないことはあまり辛いと思わないが振り返れば長い付き合いだったな。
昭和初期の子どもの頃も勿論紅茶も珈琲も普及していた筈だが、不思議と紅茶の想い出がない。
パン食が普及していなかったからかも。
でもケーキには飲み物は何だったのだろう。多分私が覚えていないだけなのだろう。
コーヒーのことははっきり覚えている。
昭和10年代のころ、何故か両親がコーヒーに凝りだした。
白くて青い縁のついた大きな琺瑯のポットに湯を沸かし、ネルで縫った10センチ大の袋にコーヒー粉を入れてポットの中に吊るして暫く弱火にする。
コーヒータイムは父が家に居る夜の8時頃だった。
昔は5時過ぎには夕食だったから、8時に下から佳い香りが漂って来て
「コーヒー入ったわよ」
と母の声が階段下から聞こえると嬉しくて兄妹3人が駆け下りたものだ。
お砂糖いっぱい入れて飲んだと思う。 幸せ感があった。
今思えば、女学生になるかならずの子供にコーヒーをよく飲ませたものだと妙な感心をする。
やがて太平洋戦争に突入してコーヒー豆も本場の紅茶も消えた。
大豆を黒く煎った代用コーヒーが戦後暫くまで続いたが似て非なる代物だった。
その後遺症だろうか夫も私も大のコーヒー好きで毎日夫が上手に淹れてくれたっけ。
コーヒーミルで挽いて漂う香りは平和の象徴に思える。
ま 今はその香りを時々嗅ぐだけでも満足だ。
飲めないことはあまり辛いと思わないが振り返れば長い付き合いだったな。
昭和初期の子どもの頃も勿論紅茶も珈琲も普及していた筈だが、不思議と紅茶の想い出がない。
パン食が普及していなかったからかも。
でもケーキには飲み物は何だったのだろう。多分私が覚えていないだけなのだろう。
コーヒーのことははっきり覚えている。
昭和10年代のころ、何故か両親がコーヒーに凝りだした。
白くて青い縁のついた大きな琺瑯のポットに湯を沸かし、ネルで縫った10センチ大の袋にコーヒー粉を入れてポットの中に吊るして暫く弱火にする。
コーヒータイムは父が家に居る夜の8時頃だった。
昔は5時過ぎには夕食だったから、8時に下から佳い香りが漂って来て
「コーヒー入ったわよ」
と母の声が階段下から聞こえると嬉しくて兄妹3人が駆け下りたものだ。
お砂糖いっぱい入れて飲んだと思う。 幸せ感があった。
今思えば、女学生になるかならずの子供にコーヒーをよく飲ませたものだと妙な感心をする。
やがて太平洋戦争に突入してコーヒー豆も本場の紅茶も消えた。
大豆を黒く煎った代用コーヒーが戦後暫くまで続いたが似て非なる代物だった。
その後遺症だろうか夫も私も大のコーヒー好きで毎日夫が上手に淹れてくれたっけ。
コーヒーミルで挽いて漂う香りは平和の象徴に思える。
ま 今はその香りを時々嗅ぐだけでも満足だ。
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