戦前の田舎に暮らして2011/02/16

水仙満開のころ
戦中、戦後を過ごした田舎の話の続き。
都会の住宅街で暮らして来て、本格的な農地の広がる田舎はカルチャーショックの連続だった。
周囲に大きな葉がくっついているキャベツの全貌を初めて見た。
天秤棒で担いで来た桶のなかの下肥(解る?)を柄杓で野菜の根元に掛けたり、田圃では豪快に撒く。
化学肥料も浄化装置も不要の合理的な生産方法とも言える。

大きな山の麓から用水路が引かれていた。 山麓の部落を通り、田圃や畑の間を流れて私たちの住んでる集落に達していた。
幅2メートルくらい有ったろうか。水量は多かった。
川縁が1段低く作られたところが村の洗い場になっていた。
一番上流がお米を磨ぐ場所、次が野菜の洗い場、少し下流が洗濯場になってて朝早くから主婦や娘さんが集まって賑わっていた。
新参者だから空いた頃を見計らって洗濯などしたが濯ぎなど衣類を水中に広げていれば流れが勝手に奇麗にしてくれる。
お米だって同じ理屈だ。
田舎の生活の知恵に感心した。
上の部落で使われ田圃の中を流れて来た水の衛生面の疑念は有ったがその土地特有のマナーが守られていたようだ。
子どもの時から躾けられ常識になっている。
だからそれを知らない余所者は嫌われることが多かった。
いろんなしきたりの面でも。

村の有力者の方のお世話になって我が家は近所の方々から良くして貰ったが、私は友達が一人も出来なかった。
今はすっかり変わって都会も田舎も違いは少なくなったと思う。