クラス会2010/10/06

都心
クラス会で久しぶりに都心に出た。
ビルの間から上をを見て やっぱり空が狭いなと思う。

関西の小さな女学校だから関東に住んでいる人は元々少ないのだが、出席の数が年々減って今年は11人の予定が、間際に3人のキャンセルがあったそうだ。 体調を崩す人が多い。
関西にいる、小学校から一緒でよく家にも遊びに行った友達が9月の初めに熱中症で孤独死したという悲しいニュースも聞いた。

関西から一人参加したのは私の親友で相変わらず元気だ。
彼女は面倒見がイイから今ではクラスメートのリーダー的存在で、関西の連中は毎月集まって食事したり、旅行しているらしい。
女学校5年の時に軍需工場で一緒に働き、空襲で恐ろしい目に遭ったり、阪神大地震で助け合った仲だから結びつきは強い。
4年生までで飛び出した私は羨ましく思う時が有る。

その頃の話を聞いてみた。
「工場で何つくってたの?」
「窓枠よ。面白かったよ!」
1枚の鋼板にドリルで幾つも穴を開けて切り取り、ヤスリで仕上げる工程を説明してくれた。
「ああいう仕事、一生続けてもいいと思ったわ」
「同じよね。 私もグラインダーで金属削るの、あんな面白いこと初めて経験したもの」

皆で女学校の頃の思い出話になったが、それぞれ覚えていることが全然違う。
先生への感情もそれぞれで この歳になれば何でもさらっと本音で話ができるものだと思った。
幼なじみとは 年に1〜2回しか会う機会がなくても 家族のようにす〜っと溶け合う。

温かい余韻を抱いて帰路についた。

ノーベル賞2010/10/07

金木犀薫る頃
日本人お二人のノーベル賞受賞は、久々に嬉しいニュースだった。
テレビで北海道の小さな町にお住みの鈴木章氏の生い立ちなどを聞いて感動した。 殆ど同じ世代だから子どもの時は苦労なさっただろうと想像する。
理論は解説されても漠然としか理解できないが、既にいろいろな分野で活用されていて、ノーベル賞って実績が証明されてから贈られるのだと当たり前のことを知った。
これまで受賞された方々もそうだったけれどお人柄が清々しいですね。
ワイフって言葉 懐かしくて思わず微笑んでしまった。

ノーベル賞では湯川秀樹氏が忘れられない。
昭和24年11月3日 ノーベル物理学賞受賞の報に日本中が沸いた。
戦後の日本人が誇りも自信も無くしていた時代、どれだけ勇気づけられ希望の灯をともしたことか。
暗いニュースの多かったなかで湯川氏のノーベル賞と古川広之進の4つの世界新記録達成に当時の国民は元気を貰った。

嬉しくて昭和24年のことまで思いを馳せた。
因に 台湾バナナが戦後初めて輸入されたのもこの年である。

パンパステルで描く2回目2010/10/08

人物デッサン(パンパステルで描く)
パンパステルを使っての人物デッサンの2回目だった。
前回は暗中模索もいいとこだったが、今日は何となくイメージが固まって来て、輪郭のアタリ線は引かずに色をいっぱい置き伸ばして行く。
パンパステルは色面を簡単に広げられて、重ねるほどに深みが出る。
黒いチュールを纏ったモデルさんは素敵だった。
その魅力を表現したかったが難しい。
2時間半、塗り重ねては消したりの試行錯誤を繰り返した。

先生に見て戴く順番が来て、絵の前に座られてしばし眺めて
「うん いいよ。 絵らしくなったね」
少し手を入れて下さった。 それだけでぐっと垢抜ける。
毎回見てるのに、時には実演もしてくださるのに、私は溜め息をつくだけでイメージしてることの半分も絵には現せない。
もどかしいけれど それだから夢中になれるのかも。

終ってから仲間の絵を観てまわった。
同じモデルさんで、同じパンパステル使っているのに夫々個性が出てて全く違うのに感心する。

次回は、前にデモンストレーションで先生が描かれた100号の絵と同じ衣装と聞いて凄く楽しみだ。

添付の絵は上半身の部分だけをアップしました。

哲学を齧った頃2010/10/09

工房
昭和20年、長い戦争が終わって学校の授業も再開された今頃、何をしていたのだろう。
街に出ればベージュの軍服を着た進駐軍が派手な服装の日本女性と手を組んで歩いていた。 彼らの集会所の様な所では、ボーリングの音が外まで洩れていた。
我々は 夜になると怖いから絶対に外出しなかったものだ。

秋の夜長にテレビも無い時代、寮に帰るとひたすら本を読んでいたな。
あの頃の学生は哲学書を読むのが一種の流行で、西田幾多郎の「善の研究」が書店に入ったと聞くと並んで買い求めた。
内容は覚えていない。

一昨日、アトリエに行く電車のなかで持参した古い「世界の名著」を広げて目次を見たら デカルト、カント、キルケゴール、ニーチェ、フロイト、ハイデッガー、サルトルなどの名前が有って懐かしかった。
うん 一応は読んだのだけど、大海の中でアップアップしていた感じだ。
それでも友達や男の子と議論するために、それに見栄もあったし。
男の子の中には哲学科に行きたいと言って父親から猛反対されたのが何人かいた。「どうやって食って行くのだ」と。

価値観の激変の中で若者も必死に何かを見付けようとしていたのだと思う。
私達の大部分は、哲学の中に答をは見いだせず、徐々に現実に直面して大人になって行った。
80歳になれば悟れるかなと漠然と考えていたが全然だ。

今の学生は哲学書に興味あるのかしら。 悩みの質が違って来て
そういうものに答を求めないのではと想像する。

学園生活の思い出2010/10/10

読書する少女
終戦前後の学園生活を思い出してみると、凄く長く感じた学徒動員が実際は半年足らずだったことに驚く。
あの頃はろくに勉強出来ず、英語などは敵性語で教わらなかった話も聞くが、私は工場で働いた半年(授業が無かったのは8ヶ月)を除いてはちゃんと教わっている。 英語が身に付いていないのは私が怠けたせいだ。

どん底の死の恐怖と飢餓を味わい、敗戦のショック、社会の基準がひっくり返り、混沌としたなかでの時間は今の何倍もの濃さがあったのだろう。 それに若いほど年月は長く感じられるというから。
ともかく学園生活の残りは1年7ヶ月だった。
教室での授業はそれなりに面白く平和に感謝したが、それより興味惹かれることが終戦後の巷には多過ぎた。
学生同士は学校、男女の枠を超えて社研や劇研のサークル活動し(これは半年くらいで学校から禁止された)、戦後どっと入って来たアメリカ映画やフランス映画に酔いしいれ、これまで読めなかった本を読むのに忙しかった。
飢えてても お洒落が出来なくても、それより街には刺激に溢れていて楽しかった。

やがて歌舞伎座も再開され、六代目菊五郎や初代の吉右衛門を天井桟敷から眺めた。 初日に朝早く切符売場に並ぶと確か5円で一日通しの券が買えた時代だ。
父が健在だったからそういうことが出来る小遣いを貰えて親に感謝している。 ほんとうによく遊んだなあ。

卒業を目前にして父が亡くなり、卒業式には葬儀で出席出来ないまま私の学園生活は終った。
今思えば思いっきり好きなことをして遊んでおいて良かったと思う。 ま もう少し勉強もすれば良かったという後悔も無いと言えば嘘になるが勉強したい意欲だけは今も続いている。
そもそも「3年間遊んでこい」って送り出してくれたのは父だったのだから。