父への想い2010/10/21

山にて
10月は父の誕生月だったなと ふと思い出した。
18日だったけ、子供の誕生日は祝っても両親の誕生日には特別の事は何もしなかったから うろ覚えだ。
明治25年生まれ、日清戦争の頃だ。
父の一歳過ぎの家族写真には、乃木大将のような羽飾りのついた軍帽を冠って写っている。 眼がくりっとして可愛かった。

私が物心ついた時の父は既に髪が後退して口髭を生やしてて30代とは思えない老成した感じで現代の父親像とは全然違う。
昭和初期の一般的な父親は家長としての特別な存在で、古い家では父親だけは別のお膳で母親が傍についてお給仕し特別なご馳走も付いていたりしたものだ。
その代わり、家の中の事や子供の面倒は母親に一任されていた。
子どもの進路や結婚になると父親の意思で決まる。

我が家は父が大正デモクラシーや個人主義に共鳴していたせいか、比較的自由だったと思う。
父親の帰宅前に、夕飯を母と一緒に食べると友達のお母さんに話したら吃驚したみたいに
「お母さんも先に食事するの? お父さんを待ってないの?」
と何回も聞かれてこちらのほうが驚いたっけ。

血液型の事を言うと馬鹿にされそうだが、母はA型 姉と兄はO型 父と私はB型、不思議と父と私は話が合った。
小学生の私が父とコタツで向き合って夢中になって話を聞いてると母が
「また 夢の様なことばっかり」
って 呆れたように言ったものだ。
小学3年か4年の時に岩波文庫の「ファーブル昆虫記」を1册づつ往診鞄から出してくれた時の嬉しかったこと、次が待ち遠しかった。 「こどもの科学」も毎月お土産に買ってきてくれた。
大きくなって考えると、姉は母の話し相手で文学と絵が好き、兄は受験勉強が大変だったから、独ぼっちにみえる私のことを気遣ってくれたのかも。
母は教会のお供には私を連れて行ってくれたが、プラネタリウムや文化映画専門の映画館などに連れて行ってくれたのは父だった。 
喜んで付いて行くのは私だけだったのかも知れないけれど楽しかった。
日曜ごとに行く有馬のゴルフ場にも時々連れて行って貰って一人グリーンの近くでセンブリを摘んで遊んでいた。
ともかく黙って手の掛からない子だったと自分でも思う。

女学生になって初めての夏休みの課題本のなかに「キューリー夫人伝」があって母に買って貰って読んだらすっかりのめり込んで憧れた。 これは父の職業的に得意分野だからいっぱい話が聞けた。 
私は専ら科学や発明好きの父の面ばかり見て育ったが、父の亡くなった後で母から
「若い時はオートバイ乗り回して颯爽としてたのよ。浄瑠璃にも凝ってて遊んだのに、お兄さんが2人相次いで亡くなって生家と姉達や甥姪の面倒見る事になって 変わってしまった」
そう言えば書棚には近松全集が並んでいたし文学全集もいっぱいあったな。 おかげで読書三昧の少女時代を送れたと感謝している。

昭和22年に56歳で逝ってしまった父が口惜しい。
パソコンだって喜んで飛びついただろうと思う。
私って 父のDNAをいっぱい貰ってる気がする。