昭和25年の10月2010/10/03

無題
昭和25年の今頃は忙しかったなと思い出す。
7月にお見合いして、結婚が決まって周囲はほっとした。
父が3年前に亡くなり、兄は前年に結婚していて私のことだけが心配の種だったらしく父母の友人からお見合いの話を幾つも戴いたけれど結婚する気になれなかった。 職場にも独身男性は多くて友達付き合いはしていても恋愛感情は抱いたことがない。
オクテだったのだろう。

あの頃は女性の結婚適齢期は23歳が常識で、仕事一筋に生きるほどの情熱もなかった私は、家出願望も手伝ってそろそろ結婚したくなっていた。 後の夫とお見合いした時、初めてこの人と結婚したいと真剣に思った。 幸運だったと、あの時尽力して下さった母の友人に感謝する。

婚約して2回目のデートは祇園祭の宵山だった。
雑踏の中を歩き回って帰ったら義母が嬉しそうに迎えてくださって、あれこれ話したら
「まあ お茶も飲まなかったの。 ほんとに気が利かないんだから」
当時は安月給だったからそんな余裕なかったのだと思う。
歩いているだけで楽しかった。
無論 付き合っている間にレストランなどで食事した覚えはない。 河原でホタルを見たりしていた。

或る日、母が唐突に提案した。
「比叡山に遊びに行ったら? 宿坊で泊まってらっしゃいよ」
宿坊は安いし比叡山からの眺めは抜群だ。
義母は少し驚いていたが許してくれて二人で登った。
杉木立が美しく、脇道を探検していると叢に大きな蛇がトグロを巻いていたのを夢の中の出来事のように目に浮かぶ。泊まっても彼は紳士的だった。
楽しいデートだった。

11月4日の式に向けて10月はすることがいっぱい有った。
母と一緒に丸太町通りの家具屋さんで洋服ダンスや和箪笥、鏡台などを買い、裁縫道具入れの小箪笥は私が設計したのを手作りして貰った。 金具を使ってなくて6段の小引き出しもキチッと収まって50年使ってみて職人芸の素晴らしさが判った。
当時は一般に貧しくてそういう需要が少なかったから喜んで作ったくれたのだと思う。
私は生地を買って来て洋服作りに忙しかった。 プリーツスカートやボレロが流行っていた。 スーツは母の友人に仕立ててもらった。

姉が結婚するときは、呉服屋さんが毎日のように出入りしていて、父が珍しく
「そんなに贅沢していいのか。次の子もいるのに」
と小声で言ったのを聞いてしまった。 母はきつい調子で
「これくらいはしなくては貴方の体面がたもてません」
父は黙ってしまって苦笑していた。

私の時は到底そんな支度の出来る世の中でもなかったし、父がいなくなったのに、受け継いだ兄が工面してくれたのだろう。

勤務先を辞めたのも今頃だったな。
課長さんが心配して下さって、次の就職先を紹介してもいいよと言ってくださったのが印象に残っている。にべもなくお断りしたがホント考えが甘かったと後で思い知った。

美容院に貸衣装や当日の打ち合わせで何度も足を運ぶ。
何もかも自分たちで考え、頼んで回る毎日だった。
曲がりなりにも結婚式を挙げられたのは、あの時代には恵まれたことだった。