寮生活の想い出 ― 2010/10/26
昭和19年に離れた土地の学校に進学した。
生まれて初めて親元から離れての寮生活が始まった。
戦後流に数えれば16歳だった。
学園の敷地の奥のテニスコートの奥に3棟の寮が建っていて、夫々に名前が付けられ、寮監先生とお掃除など担当の結構存在感のある初老の女性(よく注意された)が。
学校は重厚な西洋建築なのに、当時の寮は黒い瓦葺きの2階建てで大きな長屋風の古い日本家屋だった。
新入生は最上級生の3年生と同じ部屋が割り当てられる。
6畳の畳の部屋に二人で、一間(180センチ)の押し入れの左右を分けて布団や荷物を入れた。確か一番したのは引き出しが2個付いていて衣類を入れたと思う。
窓際に各自の勉強机、横の壁際に書棚を置く。
和風の座る勉強机は手持ちが無くて母に買って貰った。
たった二年しか違わないのに最上級生は貫禄があって、小さくなってたな。
大陸から来てて夏休みになると大きな鞄を提げて船に乗って行き来している姿が頼もしく見えたし、寮の習慣から学校のこと、先生のことなどイッパイ教えて貰える有り難いお姉様だった。
赤い屋根の洋風の食堂は少し離れていて、食事の時間になると鐘が鳴らされ、寮生はぞろぞろと歩いて中に入ると長方形のテーブルが整然と並んでいた。
最初の夜、新入生は同じ郷里から来てる人同士(私のように一人だけのほうが珍しかった)集会場に集まってそのうちホームシックで泣き出す子も多かった。
あの頃の16〜17歳はウブだったと思う。
私だって少しは心細かったが、家から飛び出して自分の世界が出来たことのワクワク感のほうが大きかった。
授業料もお小遣いも親の世話になっているのだから自立には程遠いのに、家から独立したい年頃だったと思う。
姉が前年に結婚して離れた都会に行き、前後して兄も日本の端っこの高校に入った。
1年後には私も親元を離れて、母は二人だけになってしまったと珍しく淋しそうに洩らしていたそうだ。
そんな親の心情も知らずに私は新天地の何もかもが珍しく、各地から集まってきた友達との交流を楽しんでいた。
終戦を挟んで苦楽を共にした寮の友達への想いは今も特別なものがある。
あの3年間で引っ込み思案で自分の殻に閉じこもっていた私が脱皮できたと思うのだ。
そいう機会を与えてくれた両親に感謝している。
生まれて初めて親元から離れての寮生活が始まった。
戦後流に数えれば16歳だった。
学園の敷地の奥のテニスコートの奥に3棟の寮が建っていて、夫々に名前が付けられ、寮監先生とお掃除など担当の結構存在感のある初老の女性(よく注意された)が。
学校は重厚な西洋建築なのに、当時の寮は黒い瓦葺きの2階建てで大きな長屋風の古い日本家屋だった。
新入生は最上級生の3年生と同じ部屋が割り当てられる。
6畳の畳の部屋に二人で、一間(180センチ)の押し入れの左右を分けて布団や荷物を入れた。確か一番したのは引き出しが2個付いていて衣類を入れたと思う。
窓際に各自の勉強机、横の壁際に書棚を置く。
和風の座る勉強机は手持ちが無くて母に買って貰った。
たった二年しか違わないのに最上級生は貫禄があって、小さくなってたな。
大陸から来てて夏休みになると大きな鞄を提げて船に乗って行き来している姿が頼もしく見えたし、寮の習慣から学校のこと、先生のことなどイッパイ教えて貰える有り難いお姉様だった。
赤い屋根の洋風の食堂は少し離れていて、食事の時間になると鐘が鳴らされ、寮生はぞろぞろと歩いて中に入ると長方形のテーブルが整然と並んでいた。
最初の夜、新入生は同じ郷里から来てる人同士(私のように一人だけのほうが珍しかった)集会場に集まってそのうちホームシックで泣き出す子も多かった。
あの頃の16〜17歳はウブだったと思う。
私だって少しは心細かったが、家から飛び出して自分の世界が出来たことのワクワク感のほうが大きかった。
授業料もお小遣いも親の世話になっているのだから自立には程遠いのに、家から独立したい年頃だったと思う。
姉が前年に結婚して離れた都会に行き、前後して兄も日本の端っこの高校に入った。
1年後には私も親元を離れて、母は二人だけになってしまったと珍しく淋しそうに洩らしていたそうだ。
そんな親の心情も知らずに私は新天地の何もかもが珍しく、各地から集まってきた友達との交流を楽しんでいた。
終戦を挟んで苦楽を共にした寮の友達への想いは今も特別なものがある。
あの3年間で引っ込み思案で自分の殻に閉じこもっていた私が脱皮できたと思うのだ。
そいう機会を与えてくれた両親に感謝している。
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