戦争末期の食糧事情2010/08/07

西瓜と玉蜀黍
暑くて外出する気にもなれず、さっきまで女学校の時のクラスメートと長電話した。今 ブログに戦時中の事を書いていることもあって昭和19年〜20年のころを聞いてみた。

「戦争有の事を書いてたら若い人から、その頃の食卓事情聞かれたんだけど 覚えてる?」
「確かお米の配給が一日2合4勺だったよね」
「だんだんお米の代わりに大豆粕や高粱(コーリャン)や薩摩芋になって終いにはに遅配遅配だったと思う」
「高粱混ぜたご飯って真っ赤だったでしょ」

住んでる所が生産地か消費地、つまり田舎か都会かによって食事情は全然違った。
都会でもお金持ちは闇で食料や衣服を入手していたし、時の権力と繋がった階層の食卓は豊かだったようだ。
インテリで中間層の市民の食卓は貧しかったと思う。
友達も電話で言ってたが、食事の事で不満を言うのは恥ずかしいと育てられて来たから、すいとんや蒸し芋だけの食事でも感謝しながら頂いた。 家庭菜園で採れたカボチャがすいとんのお汁に浮かんでいたらご馳走だったな。
芋づると里芋の茎(ずいき)もよく食卓にのぼった。
一番苦しかったのは昭和19年後半から終戦の日ころまでだ。

敗戦とともに闇はおおっぴらになり、お金さへ出せば闇市で何でも買えた。
進駐軍が来る前にと鮭缶などの配給がどっときたし、軍需会社は解体される前にと従業員にストックしてあった衣料などを配った。 どこまでの範囲に配られたかは知らない。

我が家は農村に疎開してからは都会よりはましな食卓だったと思う。 空襲で焼かれなかったから買い出しに行って食料と替える着物なども有った。戦争の犠牲による差がこんなところにもある。

あの頃はダイエットなんてしなくても皆ガリガリに痩せてたな。
如何に少ないお金でカロリーの高い食料を買うかということばかり考えていた。