父の想い出2010/03/13

薔薇園

昭和22年の今日父は56歳で亡くなった。
疎開地は粉雪のちらつく寒い小さな農村で、前年にも肺炎を患い、もう1度やると危ないな と自分でも言ってて、随分用心していたのだけど、寒さと栄養不足には勝てなかった。

ペニシリンが有れば死ぬことはなかったと思う。
兄の友人がツテを頼って駐留軍から1本のペニシリンを買って(高かった)駆けつけてくれ、注射したら 高熱がさっと下がった。
医師だった父は身を起して体温計をしげしげと眺めながら「どういうことなのだろう」と感慨深気だった。

翌日からはまた高熱が続いた。 あと何本かのペニシリンがあれば助かったのかも知れない。

その夜は私が隣に布団を敷いて付き添っていた。 夜中に暗い電灯の下で本を読み耽っていたら、父が眼を開けてこちらを見てたらしく、
「何を読んでるのだ?」
「うん ミルトンの失楽園・・」
「面白いか?」
「うん まあね」
本当は夢中になって入り込んでいたのだ。 こんな時に済まない思いでいっぱいになった。
父は黙って天井を眺めていた。 読書好きだったから何かを思い出していたのかもしれない。

翌日の昼過ぎ、母も看護婦さんもいなくて私一人だった時、父が床の間に活けてあった花を持ってきてくれと言った。 顔のそばに持っていくとしげしげと見つめて
「はっきり見えないんだな。 危篤なのかもな」
と苦笑いを浮かべながら呟いた。
私は何を言っていいか判らず、ただ黙って座っていた。

その日の午後3時13分に父は永眠した。
皆が集まって来たなか、私は離れた部屋の柱に顔を当てて号泣した。
何も出来なかった自分を責めた。
前夜、読んでいた「失楽園」は読みかけのまま、その後一度も開いたことがない。

昔のしきたりのある村での葬式が大変なことを父は心配して母の関係の牧師さんお願いしていたらしく、棺は黒いビロードで覆い、白いスイートピーの十字架を飾った。
山手に有る露天の焼き場まで近所の方が、棺を載せた台を持って歩いて行くと 通りかかった数人の駐留軍の兵士が帽子を取って胸に当て悼んでくれた。

最新の技術に興味を持っていた父、勉強家でありながら、オートバイ、テニス、ゴルフを楽しみ、歌舞伎にも詳しかった父、親戚の面倒を背負っていた父・・・・・。
そんな父と大人の会話が出来ないうちに別れがやってきてしまった。
後年、母から父が変わり者の私のことを気にかけていたと聞かされた。

”大丈夫だよ お父さん 私は幸せで人生楽しんでるよ。”

コメント

_ 美海 ― 2010/03/15 18:08

死に目に会うことは とっても辛い!
暫くは ベッドに入ると涙が止まらないんだよね。
でも現実を見つめたことで納得し、次に進むことが
出来る。
だんだん諦めに変わっていき 日常が戻ってくるって
哀しいことだけど。


あと もう少し  マッテルヨ!

_ カトレア ― 2010/03/16 13:09

ミー君~   ooooo でしょうねぇ!
> ooooo 諦めに変わっていき 日常が戻ってくる  って、哀しいこと!!
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~↓~~~~~~~~
・・・ でしよぅね そうでしょうねぇ ・・・・・ そうでしょうとも !!

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今朝、横滑り転院を終え 『ペースト食・完食』 。
で以って 落ち着いてメールしていまっす! ゝ(^-^ )) (( ^-^)ノ~~

_ 美海 ― 2010/03/16 23:34

カー君  良かったぁ
  ゝ(^-^ )) (( ^-^)ノ~~   うん 元気そう!

また アシタ ね

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