母の誕生日に2011/07/02

夏本番も近い
今日、7月2日は母の誕生日だ。
明治35年だから生誕109年になる。 今なら100歳過ぎて元気な方もいらっしゃるのに57年の生涯は短かかった。
一昨年の今日のブログに母の想い出を書いているが書き切れなかった断片を拾ってみよう。 私の記憶が残っているうちに母の生きた証しを少しの間でも置いておければと思うようになった。

母は生まれながらのクリスチャンで社交家でどこに行っても友達をいっぱい作り、お洒落で、羽仁もと子さんに傾倒して友の会にも入り、彼女の全集も父の蔵書と一緒に並んでいた。
数えで19歳で結婚した母は10歳年上の父からも、父の姉達からも子ども扱いされていて、我々子どもまで母をあまり尊敬してなかった覚えがある。

父の兄2人が事故や病気で若くして亡くなり本家の面倒を引き受けることになった時に父は離婚を申し出たそうだが母は一緒に世話を引き受けますと断ったそうだ。
それは情報屋であった姉から聞いたのだが、父の日記にはお互いの自由を尊重して子どもの前だけでは争いをしないと話し合ったことが書かれていたとか。 
遺児になった従兄弟はうちにきて学校に通っていたし伯母さんたちも病気になれば我が家で療養していた。
母の愚痴は聞いたことが無い。
末っ子の私は中学生だった従兄弟のちょっと不良気味の友達連と遊ぶのが楽しかったし、写真学校に通っていた従兄弟には写真を撮ってもらうのが珍しかった。

母の涙を1度だけ見た覚えが有る。
例によって伯母が2人遊びに来ていて、私の着ているワンピースの丈が短か過ぎると注意したらしい。
母は私を立たせて伯母の目の前で裾のかがり糸を引き抜いて長めに仕立て直しだした。
伯母に背を向けた母の目がうるんでいた。
私は何も言えなかったけれど何時も可愛がってくれる伯母さん達が恨めしかったし長い裾もイヤだし、初めて母を可哀想と思った。 小学2年生くらいだったと思う。

40歳半ばで直腸癌になったときの母は気丈だった。
祖父と同じ病気になって良かった。癌は当時死の宣告と思われていたから皆にゆっくり有難うと言えるのは嬉しいと。
厚い信仰に支えられていたのだろう。
だが幸い完治してからの13年間に父に先立たれ、生活の苦労とともに自立したのちの母は少し変わったと思う。
その辺のことは次の機会に書きたい。