「シズコさん」を読んで2011/06/01

医院の待合室で
昨日図書館で借りて来た佐野洋子さんの「シズコさん」は午後には一気読みしてしまった。
シズコさんは彼女のお母様、幼い時からの長い確執と最後は惚けられて93歳で亡くなる前の和解に至るまでの話に自分の幼児体験が重なった。
彼女の著作との出会いはよく行く医院の待合室で手にした絵本だった。
「100万回生きたねこ」
すっかり魅せられてしまって行く度に長い待ち時間に繰り返し読み、眺めた。
それから彼女のエッセイを本屋で捜して買ったがユニークな彼女の人柄に惚れ込んでしまう。
烏滸がましいが何か似てる、共感がある。
「シズコさん」読んで、私も母親のスキンシップなしで育ったなと振り返った。
でもあの頃の母親は忙しかったから当たり前と思っていた。佐野洋子さんほどの感受性も無かったのかも。

最近目にする母娘の関係は小さい時は微笑ましく、大きくなれば姉妹のように仲が良くていいなあと羨ましくなるときがある。
うん これって時代の差じゃなくて個々の家の違いなのかも知れない。
いつか母のことを書いてみたいと思う。
社交的で明るくて料理も上手で父の親戚の面倒を良く見て、父の亡くなった後一人で自立して逞しく生きた人だった。

言葉雑感2011/06/02

名前も知らない花が満開!
朝の連ドラ「おひさま」を退院してから欠かさず観ている。
若い友からは「懐かしいでしょう」と言われるし、確かにあの時代の空気が伝わってきてつい思い出に浸ることも多い。

主人公は私の姉と同い年で私より6年上だ。
土地が違えば風俗も全然異なっていた時代だから、着物を着て通ってる小学生が居たのだなあ、日本はまだまだ貧しかったのだ。
いろんな場面で共感したり、ちょっと違うなと思ったりするけれど何時の時代だって皆が同じってことはないだろう。

関西に育った私が一番感心したのは、家族の間での礼儀正しさと言葉の美しさだ。
我が家は「父ちゃん」「母ちゃん」「行ってきまーす」だった。
姉や兄には勿論、父母にも「有難うございます」なんて言ったことなかったなあ。
結婚後10年程して東京に転勤になり関東での生活の方が長くなったが最初は随分戸惑った。
東京に来て女学生や道路工事している人たちの標準語の会話はカルチャーショックだった。
関西では他所行きの言葉が普通に美しく話されていた。

ま 標準語だからすぐに慣れたけど、奇麗な反面言葉の微妙なニュアンスが伝わらないしあまりに直裁すぎる感じは有った。
関西の言葉はラフそうだけど相手が子どもでも方言の丁寧語が入ることが多い。(同じ関西でもいろいろだけど)
我が家の周囲では子どもを呼び捨てにする習慣は無かった。
「お前」なんて言われたことがない。
お断りをする時は相手の方を傷つけないようにやんわりと匂わせて察して戴く。
東京に行った当座はPTAの友人に「イエスかノーかはっきりしてよ」とよく言われた。 こちらにするとはっきりノーと言ってるのにと不思議だった。

もう今は東京弁が好きになっているが、京都に行ったり電話で役所やお寺の方と話す時は努めて京都言葉を使う。
話がスムーズに運ぶように思うのだ。

ドラマを見ていて折り目正しい言葉は気持ちのよいものだと書き出したが、各地の土地に根ざした言葉も温泉につかった様に気持ちがほんわかするなと何だか纏まりの無い話になってしまった。

スキンシップ2011/06/03

先日の莟が満開! 美しい花冠に♫
私が育った頃の阪神間は大阪、神戸のベッドタウンとして開発されたばかりで裕福な豪邸と、比較的知識層のサラリーマンの文化住宅が多かった。
伝統がないし輸入港の神戸から洋風の文化が入ってくる。
三都物語と言われるくらい京都、大阪とは雰囲気が違った。

我が家は典型的な中流家庭だったが父は大正デモクラシーで子どもも対等に扱ってくれたし、母はクリスチャンで欧米風の文化に憧れていたから子どもは幼い時から子供部屋で独り寝させられた。
お茶の間での団欒や、縁側での夕涼みや花火の楽しみも味わったし、親の愛情は信じていたがスキンシップは全然なかったな。
両親に抱かれたことも、布団に潜り込んだことも、手を繋いだ思い出さえ無い。

佐野洋子さんの「シズコさん」を読んで自分の体験と照らし合わせ、うーん 私も結構クールに育てられたけどそれだけでは比べられないことだろう。
私が子育てする頃の育児書にはスキンシップの大事さが説かれていた。 経験のない私には解らない。
ただ 小さい時から問題は自分で解決すること、誰にも頼れないと思いそれなりの知恵がついたと思う。

初めての寮生活した夜、新入生は何人ずつか集まってホームシックで泣いていたが(あの頃は皆純情だった)私は新しい生活への期待でわくわくしていた。
テレビドラマの家族の絆は美しいし、これからの高齢社会で家族の愛情はますます大事なのだろう。 否定する気はないが自立している根底が有った上での絆だと思うのだが。
私は弱い人間だが父母の育て方には感謝している。

子供部屋の想い出2011/06/04

公園の民家の庭でザクロの花を見つけた。
幼い時から子供部屋で独り寝たって書いてからあの頃の記憶を辿った。 今の方達が思い浮かべるであろう子供部屋には程遠い。
住んでいた地では襖で区切った和室が主で応接間用の洋室が一部屋ついているのが一般的な住宅だった。
我が家ではお茶の間の隣の和室が両親の寝間で客間の他に台所の横に女中部屋があった。
2階の和室に姉兄と私が寝ていた部屋を子供部屋と称していたけど殺風景だったな。
小学生になると勉強机と小さな本棚を置いてちょっと子供部屋らしくなったけれど可愛い縫いぐるみや壁に飾るものも無くて、夜になれば自分で押し入れからお布団出して敷く。

昼間は学校から帰れば友達と遊びまわり、夕食後は家族とのお喋り(私は殆ど聞き役だった)、7時になると各自の子供部屋に引き揚げる。
ほんと夜だけの子供部屋だった。
勉強のための時間だったのだけど私は本ばかリ読んでいた。9時になると階段下から母が
「寝る時間ですよ」と大声で言う。
「はーい」
電気スタンドを布団の中に入れて光が漏れないように潜り込んで本の続きを読んだっけ。

女学校に入ると明視スタンドを買って貰って部屋が明るくなった。
因みに女学生になったら我が家では明視スタンドと腕時計と万年筆が贈られることになってて大人に近づいた気分で嬉しかったな。
寝る時間にも干渉されなくなった。
書棚も小遣いで買った本で随分増えたが殺風景なことに変わりはない。およそ女の子らしい華やぎはなかった。
その反動かな、今は各部屋やトイレまで絵や人形、小さなカワイイもので埋め尽くされている。
今日も北海道土産の熊の木彫りが加わって嬉しい。

また想う  昭和は遠くなりにけり

「保田春彦〜生老病死のアトリエ」を観て2011/06/05

薊の花の力強さ
今日の日曜美術館は彫刻家の「保田春彦〜生老病死のアトリエ」だった。
若いときフランスに留学し、イタリアの方と結婚してあちらの生活が長かったらしいが私は初めてお名前も作品も知った。
若い時は現代アートの大きな作品が多い。
それはそれで素晴らしいと思ったが10年程前に最愛の奥様に先立たれて、彼女が秘かに残した絵やコラージュに新しい境地に目覚めて木彫で白い家シリーズなどに挑み、70歳過ぎてまた西欧に留学して2000点の裸婦デッサンを描く。
そのタッチの力強さに圧倒された。
体調を崩して帰国後脳梗塞で左半身の麻痺が残る。
両手を使えなければ木彫は無理だ。 再び粘土で裸婦などの彫刻に挑まれてる姿は壮絶かつ雄々しい。
老残の姿と言いながら鏡に向かって容赦ない自画像も描き続けていらっしゃる。 妥協の無い激しいタッチだ。
ご本人の眼も怖いくらい鋭い。

老をまともに見詰めてる感動を受けたが1930年生まれの81歳でいらっしゃる。
ああ 私って彼より3歳年寄りなんだ。 なんて自覚も無く暢気に過ごしているけど生きている間は私なりに挑戦して充実感を味わいたいと思った。