花雑感2011/07/01

どちらもアヤメ科
図書館に返本に行くと玄関先の鉢植えの花菖蒲が真っ白い花を咲かせていた。 襞の繊細な陰影が美しい。
「昭和が遠くなって(本音を申せば)」小林信彦著
の1冊だけ借りて、ついでにストアによって買い物しての帰りに空き地で懐かしいオレンジの花を見つけた。

26年前、夫の定年を期に移り住んだ湘南の家の荒れた庭で見つけたのがこのオレンジの花だった。
住宅街にずっと住んでいたから知らない自然がいっぱいだったがこれもその一つ。 今ならGoogleで解るのだけど。
当時ホームページに写真を載せてネットで知り合った仲間に聞いてやっと
「ヒメヒオウギスイセン」(姫檜扇水仙)
と解った時は嬉しかったな。
自分のことのように喜んでくれた女友達もいた。

これって「アヤメ科」なのだ。
花菖蒲も「アヤメ科」と書いてある。 さっきググって確かめた。
並べてみたら全然別種族に見えるのに。
よく似てて名前も紛らわしいのに違う科だったり植物のことは本当に疎い。
隣街にオープンした大きな書店で植物図鑑を買いたいと思いながらなかなか出掛ける元気がなくて困る。

母の誕生日に2011/07/02

夏本番も近い
今日、7月2日は母の誕生日だ。
明治35年だから生誕109年になる。 今なら100歳過ぎて元気な方もいらっしゃるのに57年の生涯は短かかった。
一昨年の今日のブログに母の想い出を書いているが書き切れなかった断片を拾ってみよう。 私の記憶が残っているうちに母の生きた証しを少しの間でも置いておければと思うようになった。

母は生まれながらのクリスチャンで社交家でどこに行っても友達をいっぱい作り、お洒落で、羽仁もと子さんに傾倒して友の会にも入り、彼女の全集も父の蔵書と一緒に並んでいた。
数えで19歳で結婚した母は10歳年上の父からも、父の姉達からも子ども扱いされていて、我々子どもまで母をあまり尊敬してなかった覚えがある。

父の兄2人が事故や病気で若くして亡くなり本家の面倒を引き受けることになった時に父は離婚を申し出たそうだが母は一緒に世話を引き受けますと断ったそうだ。
それは情報屋であった姉から聞いたのだが、父の日記にはお互いの自由を尊重して子どもの前だけでは争いをしないと話し合ったことが書かれていたとか。 
遺児になった従兄弟はうちにきて学校に通っていたし伯母さんたちも病気になれば我が家で療養していた。
母の愚痴は聞いたことが無い。
末っ子の私は中学生だった従兄弟のちょっと不良気味の友達連と遊ぶのが楽しかったし、写真学校に通っていた従兄弟には写真を撮ってもらうのが珍しかった。

母の涙を1度だけ見た覚えが有る。
例によって伯母が2人遊びに来ていて、私の着ているワンピースの丈が短か過ぎると注意したらしい。
母は私を立たせて伯母の目の前で裾のかがり糸を引き抜いて長めに仕立て直しだした。
伯母に背を向けた母の目がうるんでいた。
私は何も言えなかったけれど何時も可愛がってくれる伯母さん達が恨めしかったし長い裾もイヤだし、初めて母を可哀想と思った。 小学2年生くらいだったと思う。

40歳半ばで直腸癌になったときの母は気丈だった。
祖父と同じ病気になって良かった。癌は当時死の宣告と思われていたから皆にゆっくり有難うと言えるのは嬉しいと。
厚い信仰に支えられていたのだろう。
だが幸い完治してからの13年間に父に先立たれ、生活の苦労とともに自立したのちの母は少し変わったと思う。
その辺のことは次の機会に書きたい。

独り暮らしと情報2011/07/03

アオカナブン? 自立しているなぁ
社会との関わりが少なくなり独り暮らしになってみると、得られる情報量が少なくなったと感じることが多い。
思う所有って新聞購読や辛口の月刊誌もやめたから尚更だ。
おまけに病後療養で外出がママならないときている。
テレビのニュースは見るようにしているのだが、それだけでは見えない物が有るように思う。

昔から本の世界に没頭していて社交下手だったし群れるのもイヤ、良くも悪くも一番の話し相手で頼りにしていたのは夫だったから情報や考えを確かめ合えなくなって困ってしまう。

関西の女学校の級友と電話で話していたら、彼女達は毎月クラス会やってると聞いて羨ましかった。
その世話役の一人が前に書いた私の親友だ。
去年も東京で会った時も
「関西のクラス会においでよ。楽しいよ。」
って誘ってくれたけどやっぱり遠いな。それに今の身体では無理。

情報は世界情勢や政治、経済のことも無論大事だけど、なんでもないお喋りの中で得る情報も貴重だ。
それプラス地域の情報、出来れば若い世代の考えも知りたい。
本音が公に言い難い時代にはナマの人間同士の付き合いも欲しくなる。
私自身を変えていく必要がありそうだ。
前にも書いた覚えがあるが、もう少し元気になったら積極的に地域の友達の輪を広げようかな。
高齢+独り暮らしが増えている。 そのまっただ中にいるのだもの。

藤田嗣治の想い出2011/07/04

猫に因んで昔描いた鉛筆画を
録画していた「猫を愛した芸術家」の藤田嗣治編を観た。
よく知っているつもりだった彼の一生の隙間を埋めてもらえて感激だった。
トレードマークのオカッパとロイド眼鏡から派手な生活を想像していたら画業一筋の勉強家、ことにあの独特の白を表現する為の研究に脱帽、油彩に面相筆で美しい墨の線を載せている秘密には感嘆する。

余談だが彼が画業に専念するあまり一緒に楽しめない彼に不満で離婚、結局5回結婚して最後は日本人と結婚して見送ってもらった。
(最初の結婚だけは彼が渡仏し帰ってこないので仕方なく解消したらしいが)
真面目にやってるのだから最上じゃんと思うのは私が昔人間なのかなぁ。

戦争中彼が日本にいる時に大きな展覧会で彼の絵を観たと思うが戦争画は記憶に無い。
何時頃か忘れたが猫の群像の絵を観た。
大きな画面いっぱいに十数匹の猫が飛び回っている。
凄い形相で争ってる印象が、これまでの絵とあまりに違っていて迫力に圧倒された。 大人達は彼の心境を推量する様な話をしていたがその頃の私に難しいことは判らなかった。

姉が藤田嗣治の本を持ってて羨ましかったことを思い出した。
確か日記に書いたっけとぼろぼろの日記をめくったら、
 昭和19年9月2日 土曜日
    藤田嗣治の「地を泳ぐ」を讀む
    装丁 断然気に入っちゃった
    絵の描ける人は幸福だ
    詩のかける人は幸福だ
    個性を持っている人は、
    それを自覚し発揮できる人は幸福だ
    そう言う意味での美しい人は羨ましい。
敗戦前年の暗い厳しい世情だから少女は余計に夢を追い求めていたのだろう。

雑日記2011/07/05

7月の薔薇
図書館から先日頼んでおいた本が入ったとメールを貰い受け取りに行く。
ここで教えて戴いた
「実歴 阿呆列車先生」平山三郎著 旺文社文庫
「八朔の雪」     高田郁著  ハルキ文庫
の2冊を取りあえず。
行く道でちょっと変わった薔薇が咲いているのを見つけて写真を撮った。

図書館で手続きを済ました後、思い付いて
「藤田嗣治の画集はありますか?」
検索して有ると聞き、芸術のコーナーを捜したが評論だけで画集は無かった。
実は「猫」が見たかったのだ。 うろ覚えでブログに想い出を書いたけれどあれは昭和何年のことだったろう? 猫は何匹描かれていたのだろう? と気になっていたのだ。
帰宅してからネットで捜して「これだったろう」というのを見たが猫は15匹だった。 記憶より少なかった。制作年も判らない。
姉が生きていたら電話で聞けるのに。 昭和は遠くなりにけりとまた思う。

今日7月5日は昭和13年の阪神風水害の有った日でその想い出を書くつもりだったのだけど来年にしよう。