再び会報に2016/07/01

[百彩」夏号に
朝から片付けも一段落してチョットうたた寝していたら微かにピンポンが。
あわててリビングの受話器を取ったが一瞬の差で諦められたみたい。

気になるので一階のロッカーを覗きに降りた。
開けた途端に白い大きな封筒に「日本フロールアート」の文字が。
ワクワクしちゃいました。
今日から7月、早めに送ってくださったのかも。

大好きな海とヨットの表紙だ。
大きく載せて下さって分不相応と恐縮しながらも嬉しかったです。

今日はユックリ皆さまのエッセイを拝読するのが楽しみ。
お世話になった方々に心からの感謝でいっぱいです。

ほんと 人生って何が起こるか判らない。
89歳になって思い掛けない嬉しいご褒美を戴きました。

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 東京カルチャーセンター
   エッセイストクラブ会報「百彩」 夏号
           日本フローラルアート(株)

亡き母の誕生日に2016/07/02

母を偲んで
今日は亡き母の誕生日だ。
明治35年〜昭和34年7月30日の生涯は今を思えば短かかった。

一緒に暮らしたのは20年ほどだが、子どもの頃の年月の重さは70代、80代とは緻密さが全然違う。
あの頃は一日、一日が充実して長かった。

母の思い出もいっぱい、なまなましく細かいことまでが今も目に浮かぶ。

母は末っ子で可愛がられお琴の発表会では歌が評判だったそうだ。
女学生の頃の古い写真はまだ着物姿だった。

19歳で父とお見合い結婚、その写真は私の手元には無いが初々しかったな。

社交家で明るい母だったが親族の面倒や戦争、父の死後などなど大変だった筈だが最後まで一人で強かったと今になって憶う。

なんてことをチョット考えながら今日は2ヶ月毎の検診に少し遠くの病院に行った。
家族に甘えて車で送って貰う。

看護師さんにこの一ヶ月の不調を話したら検査と点滴をしてくださって結果、
「もう大丈夫、不調が長引いてるのは加齢のせいもあるかも〜」
入院時お世話になった先生の笑顔に勇気づけられました。

まだ足元に自信が無くて家人に車で迎えに来てもらって感謝。

今の恵まれてる自分を思うと亡き母に
「なにも出来なくてゴメンネ」
後悔しきりです。

普通に戻り中2016/07/03

このブログを書き始めて丸7年が経った。
最初の半月程は飛び飛びに、写真の添付は半月ほどしてからだ。

何気に付けた標題に一年後83歳の誕生日を迎えて悩んだ。
でも 自分の歳に気が付いてハッとしたのは82歳の時だもの〜
毎年変えるのもオカシイと勝手な理屈を付けてそのままです。

トウトウ先々月に89歳になりました。
ま あと何年続けられるか判らないけれど当分このままのつもりです。

6月は愚図愚図と過ごしてしまったが、先生の
「ムリは禁物だけど歩くことを心掛けて普通の生活に」
お言葉に励まされて今はフツウを目指して少し積極的になれそうです。

今日も添付したい写真が撮れなくて昔描いた絵を。

苦手な片付けを2016/07/04

貝の習作
久し振りに気持ちの良い目覚めで希望が湧いて来た。

7月になっての遅い衣替えだ。
独りには過ぎたクローゼットの広さだもの一年分を場所を移動するだけの数に絞りたい。
でも始末すると大抵後悔する。

気力が要るから秋に元気になったら考えよう。

まだ少し残ってるが布団の始末や洗濯まで頑張ったから後は明日しよう。
ここまで出来るように体力、気力が回復して嬉しい。

早く一応のケリを付けて、遣りたいことに専念したいです。

今日も添付写真を捜して数年前に写生した貝を引っ張りだして来ました。

最後になったが、今日7月4日は兄の命日。
もう十数年が経つがイロイロのことが思い出される。
それを毎年電話で語りあった兄嫁も3月に亡くなってしまった。
私と同い年だったのに。

思い出(阪神風水害)2016/07/05

昭和初期の六甲山
昭和13年7月5日の阪神風水害のことは今もナマナマしく心に焼き付いている。
当時その中心地で体験された谷崎潤一郎氏が「細雪」に書かれていて後年お芝居を観に行って懐かしかった。

当日の想い出はブログを始めた時から何回か書いている。

当時私は小学4年生っだった。
その少し前に住吉川沿いの海から3軒目に引っ越した所だった。
松林の名残か庭に10本余りの松の大木が有り、庭も洋式で花々がイッパイ、私は嬉しかったが家は古くて母は不満だったみたい。

あの日は降り続いた豪雨で小学校の校歌でも
「住吉川の笹流れ〜♪」
それがあの日の朝は橋桁にスレスレくらいの豪流だった。

珍しく母が気遣って学校まで送ってくれたが、避難して来られる方が雨天体操場に溢れ出してそのまま炊き出しのお手伝いをしていた。

前にも書いたが二時間目の工作の授業中に慌ただしく住吉川決壊の報が先生に伝えられた。

でも普通に授業が続いて終ると独りで帰ったが家の前の住吉川に水が流れていない。
上流で土手が決壊して溢れた濁流が住宅街を襲ったと後で知る。

後日、知人宅のお見舞いに行くと一階は天井近くまで土砂で埋まっていた。
もし父が引っ越しの決断してなかったら我が家も同じだったろう。

姉の通っていた女学校は孤立して大変だったみたい。
後年、私がその女学校に進学した時には災害時の土砂で校庭の裏に築山風の洒落た庭園が造られていた。

当時は六甲山の開発が進んで別荘や、ゴルフ場などのせいともいわれたが・・・。
山も海も楽しい地だったなと懐かしい。

その海もスッカリ変ったようだ。

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添付写真の訂正しました。
昨日アップしたケーブルカーは比叡山のでした。
マッタク迂闊でした。
これらの絵はがきは夫の父が若い頃集めていたもので、幼かった頃の思い出が蘇ります。