母の命日に2011/07/30

百日紅の花が咲く頃に
母の命日がまた巡って来た。
母のお墓は岡山の父の生家の山奥に父のお墓と並んでいるがもう二十数年前に姉夫婦、兄夫婦と訪ねたきりだ。
母だけは亡くなった地の教会の墓地に分骨して、生前仲が良かった友人達と一緒に眠っているのが救いだが、そこも遠くて行く機会は無い。
57歳で亡くなった母はもう私の想い出の中だけで生きている気がする。

父に先立たれたのが昭和22年の早春、昔風の母は当時大学生だった兄に父の残したお金を全部任せたようだが預金封鎖とかインフレとか激動の時代に生活は苦しかったと思う。
でも卒業したばかりの私が洋裁学校に行きたいと言えば工面してくれたし、自分の意志で公務員になってお給料貰うようになっても母には生活費も渡さなかった。
母の苦労が全然判っていない自分勝手な娘だったと後悔する。

苦しいなかでも教会と友の会の友人を多くつくり、広い家を子ども達の夏の家に開放したり、村の未亡人会を立ち上げたりして周囲には賑やかなお喋りと笑顔が絶えなかった。
私が結婚するともう体裁を張る必要がないと思ったのか小さな家に引っ越して、趣味でやっていた人形作りを本格的に習い直し、教室を開いて若い娘さん達で賑わった。
支局勤めの若い新聞記者さんがたの溜まり場ともなって結婚の相談相手などにもなってときたま会うと楽しそうな話ばかりしてくれたものだ。

姉は遠い地で義兄の病気の両親と同居して大変だったし兄は転勤で社宅住まい、私は子育ての一番大変だった時期、皆が母は楽しそうにしてくれていることが救いだった。
自分が独り暮らしになってやっと母の心情の一端が判る様な気がする。
今の自分が同居しなくても家族の思い遣り、気配り、愛情を感じて幸せと思う程に、私は実の母に何もせず甘えていたな。
誕生日にハンカチにイニシャルを刺繍して贈ったり、バーゲンで生地を送ったら友人にスーツに仕立ててもらって着てくれた。
そんな些細なことを喜んでくれた母にもっともっと優しい言葉で育ててくれたことを言葉にして感謝すれば良かった。

お嬢さん育ちで派手なことが好きだと周囲から思われてた母は私なんかよりずっとずっと芯の強い自立した女性だった。
晩年胃癌になったときは医師だった父は居ず、心細かったことだろう。兄の家に移るまで世話をして下さったのは友人だった。

息を引き取る前に自分から手を差し伸べて一人ずつ握りしめたのが最後だった。