サイレン2010/06/06

紫陽花 昔描いた油彩の小品
今朝テレビでサイレンという言葉を聞いて昔を思い出した。
昭和20年、終戦が間もない事を知る由もなかった今頃は空襲警報を告げるサイレンが鳴り通しだった。 前年までは警戒警報のサイレンが鳴っても緊迫感はさしてなかったが、3月の東京大空襲、5月の大阪大空襲、もうその頃は日本の空を自由にB29が飛び、日本の高射砲の砲撃の音は聞こえても当たっている気配はなかった。

寮から工場に通っていた時は夜中にサイレンが鳴ると疲れきった身体で着替え、地下室に避難した。
そのうち、頻繁に起こされるので昼間の作業着のまま寝るようになった。
六月になると工場は1発の爆弾で操業不能になり、自宅待機という名目で疎開先の我が家に帰っていた。農村地帯だから防空壕も掘らずにサイレンが鳴ると外に出てB29の編隊が通り過ぎるのを見上げていた。 真っ暗の空にサーチライトが交差して平和なら美しい夜空だった。灯火管制で地上は真っ黒だったから星がいっぱい煌めいていた。
B29の通り道だったらしく被爆はしなかったが、昼間は急降下してきての機銃掃射が有ったからサイレンと同時に身を隠さないと危険だった。

あのけたたましい、それでいて地の底から湧いてくるような大音量のサイレンの音は60数年経った今でも恐怖感そのものだ。
現在も津波やダムなどの災害を知らせるときには使われているのだろうか?
私は戦後聞いた覚えがない。 各市町村にそういう器具?がまだあるのかしら。
戦前のまだ空襲など無かった頃には町民に何かを知らせるために使われていたような気がする。正午を告げたりしていたかも。
空襲警報のシンボルとなってからは恐怖と結びついてしまった。あのサイレンだけは2度と聞きたくない。理屈じゃなく身体が反応してしどうかなってしまいそうな気がする。

これを書いた後で念のためネットでサイレン関連を調べたら、甲子園で使われているとあったが、私の記憶の音とは違うような気がする。心理的なものなのか解らないが記憶に残る空襲警報のサイレンはおぞましい音だった。

お洒落れ今昔2010/06/07

若者
これから友人の結婚式に行くという若い人のお化粧をうっとり眺めた。そのままの若い肌も美しいが手早く細やかな作業の後は目に深みが出る。ホットカーラーを取った髪のカールが素敵だ。そのままかと思ったら上で纏めて飾りをつけて華やかになった。
「うん ステキよ うつくしいよ!」と私まで嬉しくなった。

今の若い人たちのお洒落な姿は見ていて気持ちがいいものだ。
でもお洒落とは縁遠かった自分の青春時代を悔いる気持ちはあまりない。
軍需工場に通っている頃は酷い格好だったな。
ポロシャツなどの支給もあったが油染みても まともな石けんも 洗うヒマもなかった。 昔の衣服をほどいてズボンや上着を手縫いし、靴は最後は父親の革靴をはいて通った。 お風呂にも滅多に入れなかった。
汚かったと思う。 戦争ってそんなものだ。

戦後、学校を卒業してから洋裁学校へ行き 父親の遺品のインバネスからスーツを作ったりした。 その頃の流行は洋裁学園からと言われたくらい先端を行ってて、デザインを考えて自分のものを作るのは嬉しかった。 化粧品のセールスマンが出入りして、初めてお化粧のノウハウを教わった。
でも今と比べると全然地味だったな。 お金もなかったし。

父が亡くなり戦後のインフレの時代だったのに母は好きな事をさせてくれたが、洋裁学校を卒業したとき流石に就職を考えた。 本の虫だった私は図書館の館長さんに相談に行き 一般の採用試験に合格したが希望の図書館には行かれず その後の道が変わってしまった。図書館長さんはわざわざ掛け合いに行ってくださったのだが力関係だったようだ。 これは余談。

今は同じ服装で続けては出社出来ないそうだが、その頃の出勤は殆ど毎日同じ服装で当たり前だった。 それでも制服じゃないのが良かった。
お給料貰って少しづつだけどお洒落ができるのもチョット嬉しかった。 無頓着なほうだったと思うけど。

お洒落し甲斐のなくなった今のほうが何かにつけて拘ってるような気がする。
そしてお洒落出来る世の中がほんとうにイイナと思うのだ。

季節外れの牡丹餅2010/06/08

牡丹餅のいろいろ
明け方、身体が熱くて目が覚めた。 
温度計を見ると室温28度、慌ててクーラーの清涼を点けてほっとする。
梅雨時のような蒸し暑さにまどろみながら戦時中の事を思い出した。

毎日、飢えを凌ぐだけの貧しい食事で過ごしていた或る日、父が出張から帰るやいなや
「これ 貰ってきたから」
とお重を出した。
母と姉と3人で蓋を開けて覗き込むと大きな牡丹餅が並んでいる。小豆餡の牡丹餅なんて夢の様!
前の病院の婦長さんが実家で作って「先生に」って届けてくださったという話を聞いた。
「昨日仕事が片付かなくて帰れなかったから大丈夫かな」
そう言えば何だか饐えたような匂いがする。
お箸で持ち上げると糸を引く感じだ。
「この季節だもの、昨夜は蒸したから」と母。
喜んだ分、失望も大きかった。
がっくりした父が気の毒だった。
夕べ 半分でも自分が食べれば良かったのに、私たちを喜ばそうとそっくり持ち帰ってくれた父の愛情が身に沁みた。
昔から父は下戸で甘いものには目がなく、お土産はいつもお饅頭だった。 そんな甘党の父を知っている婦長さんのお心遣いだったのに。

婦長さんに済まない気持ちと残念なのとで複雑だった。
今度会った時、父は「美味しく皆でよばれました」とお礼を言ってくれるかしら なんて心配までした。
食べられなくても私たちのために作ってくださった方のお気持ちと家族の温もりのほうが嬉しかった。
人の事まで考える余裕のない索漠とした疎開生活だったから。

姉がお重を持って土間に行き、未練げに箸で確かめながらゴミ入れに捨てていた姿が忘れられない。
終戦2ヶ月前の出来事だった。

育児に思うこと2010/06/09

姉妹(粘土人形)
朝の連ドラを見ていると つい昔の事を思い出す。
赤ちゃんが生まれて育児書通りの洋風の育て方に迷ってる姿に自分が重なった。 ドラマは昭和30年代だが、私の生まれた昭和2年にも欧米風の子育てをお手本にしていたようだ。
輸入港の近くで外国人も多く見かけた土地柄かもしれない。

子どもは大人の玩具じゃない、独りで静かに寝かせておく事が父の持論でもあったから添い寝もオンブもして貰った記憶がない。
ベビーベッド替わりに座敷の柱の間にハンモックを吊って、昼間はそこで大人しく寝ていたそうだ。
スキンシップは殆どなかったな。 その点は欧米風とは大違いかも。
母は洋服も食事もハイカラなものが好きで社交家だったからあまり遊んでもらった記憶は無い。
父は子どもの人格を尊重してくれて、私は子ども扱いされたり叱られたことがなかった。
ま どっちかというと放任主義だったとも言える。

スキンシップがなくても、淋しいと思った事は無い。
父も母も3人の子どもも それぞれ自分の好きな事をしていたが、ちゃんと育ったから、見えない所で気配りしていてくれたのだろう。
戦時下の酷い生活を体験したときに初めて家族の繋がりと強い愛情を感じる事が出来た。
あの時期がなかったら 私なんて自分一人で大人になったと思っていたかもしれない。

自立心を植え付けてくれた両親に感謝している。
自分はというと育児には自信無かった。
相談する人もなく、家族には迷惑かけたけど、育児にこれが一番良いという方法はないと思った。
愛情さへ有れば何とかなるものだ。 人間は強い。少し助ければ自分の力で成長していく。
あれこれ思い迷いながらも育児で大きなモノを貰った。

添付した写真は、粘土人形に夢中になってたころの作品。椅子だけは既製品です。

学徒動員のころの思い出2010/06/10

月光
昭和20年、軍需工場で働く日々が続いた。
勉強がさして好きでない私は初めて見る工場の広さ、整然と並んだグラインダーや旋盤に興味津々であれを動かせるようになりたい!胸がトキメイタ。 一台づつ割り当てられて操作を習った。
スイッチを入れると大きな機械が低音で唸りだす。 飛行機のエンジンの弁を差し込むと火花が散って削られ、頻繁に取り出してゲージで測って規格品を作って行く。
天井の高い工場の中は騒音に満ちていた。
若い男性は戦地に応召されていたから、年配の工員さんと小学校出たての若い男の子だけで、あとは動員されてきた女子学生だけだった。

半月もすると機械にもすっかり慣れて 工員さんに隠れて拾ってきた金属で校章を作ったりもした。
昼夜3交代制で、深夜勤務の時は夜中に夜食が出る。
工場から食堂まで少し歩くのだが、灯火管制で夜道はまったくの暗闇だった。
満天の星の輝き、あの時ほどの美しい星空はその後見た事が無い。
「きよし この夜」を誰かが歌いだし、 気がつくと皆で唱和し美しいハーモニーが夜空に流れて行った。

2週間に1日しか休めない労働はキツかった。 最初の物珍しさが失せると単調な仕事の連続、殺風景な工場と騒音に、いつまで続くのだろうとの閉塞感に押しつぶされそうになった。
ラジオでは勇ましい戦果を伝えてはいたが、日本の苦境は我々でさえ憶測出来た。

食事は貧しく身体は疲れていたが一番飢えていたのは心だった。
本が読みたかった。 活字が恋しかった。
通勤の途中に友人から大学教授のお父さんの蔵書を借りて読んでた私はまだ恵まれていた。
思いは同じだったのだろう。
倉田百三の「出家とその弟子」を何かで入手して読んだ後、職場に持って行って親友に貸した。
暫くして彼女が青い顔して「無くなってしまった」という。
グラインダーの横に置いてちょっと席をはずした間に消えていたと。
みんな 本に飢えているんだなあ
哀しかったけれど 誰かが読んで心が満たされるなら いいと思った。
もう内容は朧だが 私自身はあのとき癒された記憶だけは有る。

工場は、私が母の病気で帰宅している間に1発の爆弾で再起不能になり、その時は丁度昼休みで級友は全員無事だった。 中でお弁当を食べていた初老の工員さんお一人だけが亡くなられたと後で聞いた。