学徒動員のころの思い出2010/06/10

月光
昭和20年、軍需工場で働く日々が続いた。
勉強がさして好きでない私は初めて見る工場の広さ、整然と並んだグラインダーや旋盤に興味津々であれを動かせるようになりたい!胸がトキメイタ。 一台づつ割り当てられて操作を習った。
スイッチを入れると大きな機械が低音で唸りだす。 飛行機のエンジンの弁を差し込むと火花が散って削られ、頻繁に取り出してゲージで測って規格品を作って行く。
天井の高い工場の中は騒音に満ちていた。
若い男性は戦地に応召されていたから、年配の工員さんと小学校出たての若い男の子だけで、あとは動員されてきた女子学生だけだった。

半月もすると機械にもすっかり慣れて 工員さんに隠れて拾ってきた金属で校章を作ったりもした。
昼夜3交代制で、深夜勤務の時は夜中に夜食が出る。
工場から食堂まで少し歩くのだが、灯火管制で夜道はまったくの暗闇だった。
満天の星の輝き、あの時ほどの美しい星空はその後見た事が無い。
「きよし この夜」を誰かが歌いだし、 気がつくと皆で唱和し美しいハーモニーが夜空に流れて行った。

2週間に1日しか休めない労働はキツかった。 最初の物珍しさが失せると単調な仕事の連続、殺風景な工場と騒音に、いつまで続くのだろうとの閉塞感に押しつぶされそうになった。
ラジオでは勇ましい戦果を伝えてはいたが、日本の苦境は我々でさえ憶測出来た。

食事は貧しく身体は疲れていたが一番飢えていたのは心だった。
本が読みたかった。 活字が恋しかった。
通勤の途中に友人から大学教授のお父さんの蔵書を借りて読んでた私はまだ恵まれていた。
思いは同じだったのだろう。
倉田百三の「出家とその弟子」を何かで入手して読んだ後、職場に持って行って親友に貸した。
暫くして彼女が青い顔して「無くなってしまった」という。
グラインダーの横に置いてちょっと席をはずした間に消えていたと。
みんな 本に飢えているんだなあ
哀しかったけれど 誰かが読んで心が満たされるなら いいと思った。
もう内容は朧だが 私自身はあのとき癒された記憶だけは有る。

工場は、私が母の病気で帰宅している間に1発の爆弾で再起不能になり、その時は丁度昼休みで級友は全員無事だった。 中でお弁当を食べていた初老の工員さんお一人だけが亡くなられたと後で聞いた。