スマホに2020/03/02

このところ慣れないスマホに振り回されてる。
頭が悪くなってる。 
ま もともと勤勉な人間では無かったけれど、好きなことには邁進したものだ。

今回はチョット甘く考えてた。
昨日は脚をかばいながら思い切ってバスでYカメラに行く。
店員さんの案内でスマホの機種に合った参考書を選んでもらった。
つくづく活字人間だなと苦笑してしまう。

ビルの8階の大きな書店にも初めて行って、欲しかった本も買えて、何とか無事に帰宅したらグッタリ。
世の中が落ち着いたら、脚のリハビリに通って治したいです。

今日は二ヶ月毎の主治医の先生に診て戴く日で、いろいろ適切なアドバイスが有難かったです。

ま 当分スマホ漬けになりそう〜

添付写真が撮れなくて昔描いた画集の中からです。

桃の節句(雛祭り)2020/03/03

お雛様の思い出 ―
子どもの頃、桃の節句が近くなると母は一人で雛人形を飾っていた。
昔、嫁入りの時に持って来たものらしい。
姉も私も古めかしい人形に全然興味がなかった。フランス人形のほうがずーっと素敵だと思っていたのだ。

それでもハッキリ覚えている。
御殿造りというのか、精巧な御殿のなかに収まっていて両端には欄干のついた渡り廊下があった。
御殿の中の一段低くなった所に三人官女が並んでいたっけ。
その下には左近の橘、右近の桜、左大臣、右大臣、
その下には可愛いい五人囃子、一番下の段には蒔絵のお道具類のミニチュアが。

母は毎年出しては愛おしそうに眺めていた。 実家の派手だった商家での子ども時代を思い出していたのかも知れない。
どうして もっと母に話しをねだり、一緒に楽しまなかったのだろうと悔いる。今ならあのお雛様の品の良いお顔や調度の美しさに酔いしれただろうに。

このお雛様は終戦間際に生まれた初孫(姉の子ども)に贈られた。 窮乏のどん底でお雛様など手に入らなかった時代だ。
その子が疎開先の小学校に入り、ひな祭りには先生に引率された生徒が見学に訪れたそうだ。

百年以上前のお雛様は どうなったのだろう。 ちょっと聞き難くい。 この時期になると古い日本間の隅に飾られていたお雛様がスポット当てたように浮かんでくる。

                    2010/03/03
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ブログを始めて最初の3月3日に書いたもの。
結婚してからもお雛様には縁が無くて、夕食に散らし寿司だけは定番で作るのが楽しみだった。
何だか遠い昔になったな。

添付写真のお雛様の掛け軸は、私が女学生になって習い始めた日本画で、先生が注文して掛け軸にして下さったもの。
立派な表装で、アノ時代に20円も掛かったみたい。
珍しく父が「まだまだ未熟なのに」とちょっと批判的だったし、油絵を習ってて二科展にも入選してた姉も「私ももっと額縁欲しいのに」と笑っていた。

日本画は結婚前の淑女のたしなみとして習う方が多かったみたい。
子どもは私だけだった。

でも、そのお陰でこの歳になるまで置いて、雛祭りになると必ず床の間に掛けた。
下手でも懐かしくて、先生に感謝です。

ここには持って来れなかったので10年前に添付した小さな写真を添付絵に。
雛の部分だけです。

神経質2020/03/05

最近、TVのニュースばかり観ているせいか体調に神経質になってる。
明け方、寝苦しくて目覚めて念のため血圧を計ったりして半日臥せったが、お昼過ぎにはもう平常に戻った。
まったくぅ 若い時からの神経質は治らなくて自嘲してしまう。
もう 悟りを開いてもイイ歳なのに。

夕べ遅くまで讀んでいたのは、久し振りに先日買って来た
 「気がつけば、終着駅」 佐藤愛子著 中央公論新社発行

最後の出版とのことで、先日書店に行った折に購入。
佐藤愛子さんは甲南女学校の4年先輩で、颯爽とされてたお姿は今でも目に浮かぶ。
本を出される度に、懐かしくて全部讀ませて戴いた。

お父様の佐藤紅緑氏、お兄様のサトウハチロー氏の作品も子どもの頃に夢中だったな。
兄が取っていた少年倶楽部にも連載されてたと思う。

女学校に入ると、通知簿が無かったので、心おきなく本にのめりこめた。
期末試験の前夜でも夜中過ぎまで本を讀んでいた。
それでも好きな学科だけは、成績に関係なく楽しく勉強出来て良かったと思う。

添付写真は、午睡から醒めて窓の外を見ると青空に暗雲が広がってるのに吃驚して。

哀しい思い出を2020/03/06

夕食後、何気に点けたTVに釘付けになってしまった。
 零戦〜搭乗員達が見つめた太平洋戦争〜「後編」

戦争も末期症状を感じだした折に 特攻隊のことがラジオや新聞で報じられ、戦局の厳しさが感じられた。
父は沈痛な面持ちで、日本もココまで来たのかと低く呟いた。

きっと 兄のことが心配だったのだろう。
兄は当時、旧制高校の3年生だった。
医師を継いで欲しいと父は望んでいたようだが、文科に進学。
理科系は大学に残ることが出来たが、文系は20歳になれば軍隊に入らねばならない時代だった。
その時期が迫っていた。

特攻隊の当時の風聞では、志願者は右に一歩出るようにとの指令だったとか。
でも全員が志願したとか。
事実は知らない。

口に出せなかったが暗澹たる気持ちになった。
学徒動員での軍需工場での深夜業も辛かったけれど、小学生の頃一緒に遊んだ男の子達のことも心配だった。

何にんかは中学生の頃に、来校した軍人の講演に感激して少年兵を目指し、親は反対も出来ず、夜秘かに泣いていたとか。
これは母の情報だった。

TVを観て、本人は元よりご家族の哀しみを思う。
気が付いたら、目に涙が滲んでいた。
私はのうのうと92歳まで長生きしてる。
複雑な気持ちになる。

添付写真はアルバムの隅に有った、工場に通っていた時の色褪せた腕章。

懐かしい友と2020/03/08

昨夜は4週間分の薬の仕分けをして終ったのは真夜中。
薬局にお願いすればいいのだけど、こういうこと割と好きで、自分流に作った一覧表の薬の効能を再確認しながらだ。

加齢とともに薬の種類が増えて、何だか申し訳ないみたい。
ブログも書けないまま寝てしまった。

今夜は、女学校の時からの親友から、久々の電話を貰って懐かしくて長話し。
彼女も長年住んだ家も処分してシニアハウスに転居したと聞いていたからその様子や、かつてのクラスメイトの消息をいろいろ教えて貰った。

同い年なのに、元気で相変わらず宝塚に通い詰めてるそうだが、コロナ騒ぎで今は外出禁止とか。
施設の方がとても親切で、入居して良かったとの話しを聞きながら私もそうよって。

今日は楽しい思い出が蘇りました。