昭和20年敗戦の日々3 ― 2009/08/31
あと1時間半で8月も終わる。 毎年8月はあの戦争当時のことを思い出し、死者を悼み哀しく暗い気持ちになることが多い月だ。
この8月の終わりにもう少し続きを書いておこう。
進駐軍が来た時は恐ろしい感じはなく、むしろ物珍く眺めた。ベージュ色のスマートな軍服と軽やかな帽子、艶やかな栄養の足りたピンクがかった白い肌は貧しく汚れた街の中で目立った。 子どもたちは愛想よくチューインガムやキャンデーをくれる彼らに群がるようになる。
学校の授業が再開され私も寮に戻った。 街には至る所に闇市が出現していて、雑炊を丼で食べさす店には行列が出来、日用品、衣料など何でも売っていたが何事も金次第で貨幣価値はどんどん下がっていった。
予科練崩れと陰で言う復員した若者たちが白い長いマフラーを靡かせて闊歩し、白衣の傷痍軍人が道端で歌って小銭を貰う光景、学生は暫くして輸入されたアメリカ映画に殺到し、本屋でも競って戦争中発禁だったマルクスや哲学をの本を買うとともに戦時中伏字だらけだったような本のたぐいも回し読みした。 きわどい映画も上映され、良くも悪くも自由を味わい、やがて批判力と向上心が芽生えてきたような覚えがある。 街には活気が溢れていて闇屋と学生が一番元気に見えた。
学校は違っても学生同士寄って「社研」と称するグループ活動が盛んで女子校生も一緒になって激論をした。 そのうち「劇研」が流行り「どん底」などの翻訳劇を公会堂などで切符を売って公演した。 私も参加したが(演出助手の名目の雑用)稽古は熱気に満ちて楽しかった。 のちに男子校の「劇研」への参加は禁止された。
学生生活をおくれた私は恵まれていたと感謝する。 衣食は貧しくテレビもパソコンも無かったが、その分本を読んでは背伸びして議論し、生きることの原点のような世相を体験できた日々がある意味懐かしくもあり生きた勉強だったと思える。
それにしても 貧しい日々だったなあ。 闇市で食べた雑炊は進駐軍の残飯だったのかも。 しかし抑圧されなかった、むしろ一番威張っていた若者の時代は私には楽しい思い出が多い。
無論大人の家庭や仕事に責任ある年代の方々の苦労は大変だった筈だ。
まして戦中に犠牲になられた方々、シベリア抑留の悲惨な思いをされた方々には申し訳ない気持ちでいっぱいになり、8月はやっぱり鎮魂の想いと自分が戦後の解放感を喜んだ気持ちが複雑に絡み合っている。
この8月の終わりにもう少し続きを書いておこう。
進駐軍が来た時は恐ろしい感じはなく、むしろ物珍く眺めた。ベージュ色のスマートな軍服と軽やかな帽子、艶やかな栄養の足りたピンクがかった白い肌は貧しく汚れた街の中で目立った。 子どもたちは愛想よくチューインガムやキャンデーをくれる彼らに群がるようになる。
学校の授業が再開され私も寮に戻った。 街には至る所に闇市が出現していて、雑炊を丼で食べさす店には行列が出来、日用品、衣料など何でも売っていたが何事も金次第で貨幣価値はどんどん下がっていった。
予科練崩れと陰で言う復員した若者たちが白い長いマフラーを靡かせて闊歩し、白衣の傷痍軍人が道端で歌って小銭を貰う光景、学生は暫くして輸入されたアメリカ映画に殺到し、本屋でも競って戦争中発禁だったマルクスや哲学をの本を買うとともに戦時中伏字だらけだったような本のたぐいも回し読みした。 きわどい映画も上映され、良くも悪くも自由を味わい、やがて批判力と向上心が芽生えてきたような覚えがある。 街には活気が溢れていて闇屋と学生が一番元気に見えた。
学校は違っても学生同士寄って「社研」と称するグループ活動が盛んで女子校生も一緒になって激論をした。 そのうち「劇研」が流行り「どん底」などの翻訳劇を公会堂などで切符を売って公演した。 私も参加したが(演出助手の名目の雑用)稽古は熱気に満ちて楽しかった。 のちに男子校の「劇研」への参加は禁止された。
学生生活をおくれた私は恵まれていたと感謝する。 衣食は貧しくテレビもパソコンも無かったが、その分本を読んでは背伸びして議論し、生きることの原点のような世相を体験できた日々がある意味懐かしくもあり生きた勉強だったと思える。
それにしても 貧しい日々だったなあ。 闇市で食べた雑炊は進駐軍の残飯だったのかも。 しかし抑圧されなかった、むしろ一番威張っていた若者の時代は私には楽しい思い出が多い。
無論大人の家庭や仕事に責任ある年代の方々の苦労は大変だった筈だ。
まして戦中に犠牲になられた方々、シベリア抑留の悲惨な思いをされた方々には申し訳ない気持ちでいっぱいになり、8月はやっぱり鎮魂の想いと自分が戦後の解放感を喜んだ気持ちが複雑に絡み合っている。
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