進駐軍のこと2009/09/02

私の見た敗戦後の最初の進駐軍は威圧的でも粗暴でもなく、むしろアメリカ的な陽気さと友好的なムードを感じた。知識階級や恵まれた家の人が多かったからと言う話も聞いた。  英文科の人たちは仲好く友達付き合いをしてたりしたが英語の話せないクラスの者は話せないこともあるが、やはり警戒心があって友好的に話しかけられても無言でとおしていた。
街ではその頃パンパンと呼ばれたアメリカ的な派手で贅沢な衣装の若い女性が進駐軍と腕を組んで昂然と闊歩する姿が珍しくなかった。
生きるためには仕方のない選択だったのだろうと彼女たちを蔑視する気持ちはなかった。むしろある種の健気さを感じ、またそのお陰で守ってもらえたような気もする。

その頃寮で同室だった友人は遠い地方から来ていたのだが、ある日ポツンと「女学校の時の友達が進駐軍に乱暴されて自殺したの」と呟いた。 うつむいている彼女にかける言葉がなかった。 占領されてる現実がそこには有った。

1年半後卒業してまだ疎開したままの農村に帰ってからの話だが、私自身も恐ろしい経験をしている。
街道筋に家がありその街道の先に進駐軍の基地があって、ジープや軍用トラックがよく走っていた。
夏で私はワンピース姿で一人歩いていると軍用トラックが通り越した。幌付きで十数人の兵隊が乗っていた。 それが私を追い越した少し先で急停車したのを見た途端、危険を感じて脇道に逃げた。眼の端にトラックの後部から兵隊たちが飛び降りてくるのが見えた。 もう必死に走った。 街道筋の家の裏は畑が広がっている。 家の裏伝いに逃げて納屋を見つけその陰に身をかくしてうずくまっていると表の道をかける軍靴の足音と互に掛け合う大声が聞こえてくる。 家々の戸をあけては探している気配、恐ろしかった。 実際は十数分だったのだろうが、諦めたような声が聞こえ、トラックが走り去る音が聞こえてからそろっと用心しながら裏つたいに我が家の裏口から帰宅した。
母が不思議そうな顔で「今、進駐軍が玄関開けて覗いて行ったけど何だったのだろうね」 私は「ふ~ん」と、それ以上のことは言わなかった。

臆病で用心深いとよく笑われるけれどあの頃のトラウマかもしれないと思う時がある。

生き甲斐2009/09/08

最近「何をする意欲も湧かなくて」 という言葉を二人の友人から聞いた。
一人は私より10歳以上若い。 その翌日ひとり言のように呟いた友人は7歳年上だ。
「何言ってんのよ」と笑い飛ばしたが、正直に内心を見つめれば何をしても所詮は儚いと思う自分がいる。

社会や家族に責任があり貢献もしている年齢の時はささやかな自負も持てて夢中で過ごせた。
現役を卒業すると、これまで時間的に出来なかった旅行や趣味の楽しみが待っていた。
しかし老齢とは残酷なものだ。 身体機能の衰えは先ず足腰に来るから旅行は勿論、散歩も億劫になる。 眼が悪くなるから読書量が減る。記憶力が悪くなるからテレビに出てくるタレントの名前を度忘れしてイライラする。 残された年数を考えると何をやっても空しいと感じるのは当然だろう。 鬱になる材料ばかりだ。

それでも思う。
この世に生を受けたことは奇跡だ。 宇宙の誕生から地球上の生命の出現、進化、人類の歴史、思想、科学などなど私の知らないことがいっぱいある。 折角生まれてきたのだから少しでも知りたいじゃないですか。 知ってそれが何に役立つ訳じゃないけど私にとって好奇心は人生最大の楽しみだ。
絵を描く時は自分を無にして内からこみあげてくる感情にまかせて形あるものが現れてくる喜び!
生きていることを実感できる間は目いっぱい皆と一緒に楽しいことを考えたい。

7歳年上の友人を個々に合わせて教えてくれるパソコン塾に誘って、昨日も一緒に参加した。 ノートパソコンをカートで引っ張りながらの帰途、「疲れなかった?」と聞くと「ぜんぜ~ん  楽しかったわよ」と生き生きした笑顔がかえってきた。
涼しくなったらまた一緒に近くの公園へスケッチしに行きたいな。

医院の待合室で2009/09/09

9月になって延び延びにしてきた身体のメンテナンスに追われている。年一回の健康診査をやっと先週受けて一昨日結果を聞いた。 聞く前の不安感は厭なものだ。 先生の表情を窺う、情けない話だ。
結果は少しづつ問題はあるけど想定内でほっとした。
その結果を踏まえて、耳鼻科、歯科、眼科、整形外科を回ってしまおうと昨日はそのうち2つの医院で診てもらった。(定期的に受診しなければいけないのに1年間さぼっていたのだ)

どこも待ち時間は長い。 たまたま隣り合った女性と話しているうちに戦争体験をたっぷり伺った。 私より5歳若い彼女は女学校1年の時に大空襲に遭い、川に飛び込んで逃げたという、重油が流れ火の海になったが大量の綿を水に濡らしそれを被って難を逃れたそうだ。 何故そこに綿が有ったのかは聞く時間が無かった。 低飛行してきた戦闘機からの機銃掃射の怖かったことなどなど。
東京、大阪、神戸の大空襲は身近だったが彼女は日本列島の南端の地で被災したそうだ。 思わず不謹慎に「沖縄でなくて・・・」と言ってしまったっが、今更のように空襲は全国を襲ったことを実感させられた。
「戦争だけはしてはいけないよね」と二人の意見が一致したとこで私の診察の順番がきてしまった。

次に行ったのは整形外科医院。 待合室は満員。 話し相手も見つからず本を持ってこなかったことを後悔しながら2時間待った。
実は10日前に家の階段の最後の段で踏み外し前のめりに倒れて向かいの柱に顔面を叩きつけて大丈夫とは思ったが痛みが続くので念のため調べてもらうことにしたのだ。 即、レントゲン、「骨に異常はないですね」あとは筋肉痛でしょうと湿布薬を頂く。 レントゲン写真に写った骨は立派だと思ったのに「まあ 老化はしてますけどね」との先生の一言にがっくり。 先生少しは元気づけてくださいよ。

眼科検診と眼鏡新調2009/09/11

医院巡りを始めたから今日は眼科検診に行った。これまでより1駅近くの新しい眼科医院を知人から教えて貰い其処へ。
1年前から白内障を警告されてたし、最近見え難くなった感じで手術を薦められる覚悟をしていたのだが「これだけ見えてればまだいいでしょう」と言われて本当にほっとし嬉しかった。
「眼鏡の度が全然合ってないですね」
ああ 何だか見え難かったのはそのせいだったのか! 
こちらの希望と専門家の立場からのアドバイスを調整して時間をかけていろんなレンズを試して処方箋を書いて頂いた。

行きつけの眼鏡店に直行する。衝動買いに近いなと一抹の不安があったが早い方が良い。
4年前に、ずーっと使用して来た遠近両用をやめたのを後悔していたので以前のに戻したが果たしてカンが戻ってくれるかしら。
その心配よりフレーム選びが難航した。 いっぱい有るのに「これが欲しい!」というのが見つからない。 私に取っては結構高価だから妥協し難い。店員さんを困らせたことだろう。今更そんなにお洒落する気もお洒落仕甲斐があるとも思っていないけど。
結局セルのくだけたのに決めたが出来上がりを見るのが不安だ。少なくとも結婚式に出席する時は今のを使わねばと言ったらお店の方も「そうですね」と頷かれた。

不惑の年齢はとっくに超えているのに迷うことや後悔することが多いが迷惑かけなければ少し冒険したり遊び心を楽しみたいとも思う。

或る同窓会誌2009/09/12

年に2回、夫のもとに春と秋に送られてくる会誌を私も楽しみに読ませてもらっていた。
5歳上だった夫のクラスメートの集まりだ。理系だったので前線にこそ行かなかったが軍の依託学生として研究と実戦訓練をともに受けた仲だ。
戦後の混乱期に志望の職に就くことは難しくいろんな道を歩まれたようだが10年前ごろからメール会を作り呼びかけて交流が再開した。
それが会誌に発展し、A4の用紙にプリントしてクリップで綴じた手作りの30ページほどの冊子だが表紙の写真が素晴らしくレイアウトもすっきりしている。
四季の写真や、専門分野の話、近況などの寄稿は友愛にあふれ、しかも格調が高い。 専門的な話は私には解らないが新婚当初から存じ上げてる方々の近況は楽しく夫の文が載ってるのも嬉しかった。

4年半前に夫は亡くなったが私宛に会誌は送ってくださり、受け取るとすぐに主催してくださってる方と一番親しかった方にお礼の電話をかけ、お話しするのも楽しみだった。
夫が亡くなって数ヵ月後、親しかった方が亡くなられ、続いて何人かの訃報を伺った。 会誌に寄稿される方が減っていく淋しさ。
そして昨年にはお元気だった一番親しかった方も亡くなってしまわれた。
「10年続いた会誌もこれが最後です」と昨日受けとった会誌は懐かしい写真がいっぱい載せられていた。
ずっとおひとりで手作りされ発送してくださってた方に電話すると奥様が出られ
「このところ身体具合が優れなくて今も寝てまして、何とか会誌が完了してほっとしたみたいです」
とのことだった。 奥様としばらくお話しした。

考えて見ればメール会から発展したときに皆さまは喜寿のころ、そして今は米寿の方もおられる。 寄稿されてる方々も凄いが、編集してご自宅のプリンターで印刷、製本、発送までおひとりで引き受けてくださったことに頭が下がる。
お礼の電話の度に
「ずーっと続けてください。夫と繋がりが続いているようで嬉しいですから」
と勝手なお願いをくちにしてきたが、もう言えない。 淋しいけれど。 早くお元気になって戴きたいと切に願う。