「防災の日」に ― 2010/09/01
急に思い立って耳鼻咽喉医院に行った。 予約して行かなかったので80分待ちと言われたが、涼しいので待合室でiPhoneでゆっくり新聞を読んだ。 局所的に大きく出来るから新聞紙を広げるより読み易い。
今日はたしか「防災の日」、でも一面から菅氏、小沢氏関連ばかりだ。 尤もだとは思うがテレビと余り違わない。
10何面かに「防災の心得」が少し出ていた。
1923年(大正12年)の関東大震災はもう話題にならないようだ。
実際に経験してそれを覚えてる方は殆ど居られないだろう。
大正11年生まれの夫が丁度ヨチヨチ歩き始めた頃で、関西に住んでたのに地震の余波で転んだと義母からよく聞いた。
私はまだ生まれていない。
でも子どもの頃は雑誌や本で惨状を読む機会が多かったし、体験された方の話を聞くこともあって地震の恐ろしさが焼き付いている。
地震60年周期を何故か信じていて、1980年頃から真剣に準備していたものだ。
大きな宝箱の様なケースに 水のペットボトル数本、乾パン缶詰、保存食、救急箱、防災頭巾、毛布まで用意して庭の物置にしまっていた。
毎年9月1日がくると入れ替えていたが、幸いな事に関東大地震は起こらず引っ越しをきっかけにやめてしまった。
その間に阪神淡路が大地震に見舞われた。 育った地で友人知人も多く、ショックだった。
耐震構造と聞いて入ったマンションを信じているが、出来れば生きているうちに地震には遭いたくないなぁ。 エゴ。
それにしても大正は遠くなりにけり。 話題になる事もないと少し淋しい。
今日はたしか「防災の日」、でも一面から菅氏、小沢氏関連ばかりだ。 尤もだとは思うがテレビと余り違わない。
10何面かに「防災の心得」が少し出ていた。
1923年(大正12年)の関東大震災はもう話題にならないようだ。
実際に経験してそれを覚えてる方は殆ど居られないだろう。
大正11年生まれの夫が丁度ヨチヨチ歩き始めた頃で、関西に住んでたのに地震の余波で転んだと義母からよく聞いた。
私はまだ生まれていない。
でも子どもの頃は雑誌や本で惨状を読む機会が多かったし、体験された方の話を聞くこともあって地震の恐ろしさが焼き付いている。
地震60年周期を何故か信じていて、1980年頃から真剣に準備していたものだ。
大きな宝箱の様なケースに 水のペットボトル数本、乾パン缶詰、保存食、救急箱、防災頭巾、毛布まで用意して庭の物置にしまっていた。
毎年9月1日がくると入れ替えていたが、幸いな事に関東大地震は起こらず引っ越しをきっかけにやめてしまった。
その間に阪神淡路が大地震に見舞われた。 育った地で友人知人も多く、ショックだった。
耐震構造と聞いて入ったマンションを信じているが、出来れば生きているうちに地震には遭いたくないなぁ。 エゴ。
それにしても大正は遠くなりにけり。 話題になる事もないと少し淋しい。
義母の命日 ― 2010/09/02
義母の命日、昨日榊を買い損ねたので朝近所ののストアに行ったが無い。 近くのホームセンターに行ったら傷んだのが4束だけ残っていた。 レジの女性も「これは酷いですね」と言ってくれたがもうもうこれしかないらしい。 猛暑のせいだろうか。
申し訳なくて白菊を買い添えた。 神道ではお花は供えないのだけど仕方ない。
神棚の扉を開けて義母の白木の位牌を全面に出して、洗米、塩。お水、お神酒と両脇に榊を供えた。
でも何だか淋しくて、義母の大きな写真額を下ろしてリビングの夫の写真の傍に置き白菊と果物を前に置いてしみじみ眺めた。
静かに微笑んで美しい! 賢くて優しくて強い義母だった。
夫とお見合いした時に気に入ってくれたのは義母だったし、結婚してからも、何時も私を立てて可愛がってくれた。一回も厭な事を言われた記憶が無い。 我慢してくれていたのだろうな。
私は甘え切っていた。
古い家柄の昔話、親戚のこと、仲の悪かった夫婦間のこと、夫の子どもの頃のことなどなど イッパイ話してくださった。
義母と話していると楽しかった。
嫁と姑は絶対に仲良くなれないと言うのはウソだと思っている。
私たちが結婚する5年前に義父は亡くなっているからどういう方だったかは知らないが、義母は初恋の人がいたのに祖父の遺言で気に染まない結婚を強いられたそうだ。
息子の結婚を見届けて半年ほど同居した後初恋の歯医者さんと再婚した。 何年かして私たちも転勤で義母の家の近くに引っ越したので気軽に行き来出来た。
再婚した相手の方は穏やかな素敵な方だった。
病気が解った時はもう全身に転移していてどうしようもなく、丁度夏休みの子ども達を夫と義姉に見てもらって私は病院に詰めていた。 義母の希望でもあったが私自身がどうしても看取りたかった。感謝の気持ちも有るが何より義母が好きだったから。
臨終のときは哀しかった。 隅で泣きじゃくった。
享年71歳。 若かったのに。
書いているうちに想い出がいっぱいで涙ぐんでしまう。
申し訳なくて白菊を買い添えた。 神道ではお花は供えないのだけど仕方ない。
神棚の扉を開けて義母の白木の位牌を全面に出して、洗米、塩。お水、お神酒と両脇に榊を供えた。
でも何だか淋しくて、義母の大きな写真額を下ろしてリビングの夫の写真の傍に置き白菊と果物を前に置いてしみじみ眺めた。
静かに微笑んで美しい! 賢くて優しくて強い義母だった。
夫とお見合いした時に気に入ってくれたのは義母だったし、結婚してからも、何時も私を立てて可愛がってくれた。一回も厭な事を言われた記憶が無い。 我慢してくれていたのだろうな。
私は甘え切っていた。
古い家柄の昔話、親戚のこと、仲の悪かった夫婦間のこと、夫の子どもの頃のことなどなど イッパイ話してくださった。
義母と話していると楽しかった。
嫁と姑は絶対に仲良くなれないと言うのはウソだと思っている。
私たちが結婚する5年前に義父は亡くなっているからどういう方だったかは知らないが、義母は初恋の人がいたのに祖父の遺言で気に染まない結婚を強いられたそうだ。
息子の結婚を見届けて半年ほど同居した後初恋の歯医者さんと再婚した。 何年かして私たちも転勤で義母の家の近くに引っ越したので気軽に行き来出来た。
再婚した相手の方は穏やかな素敵な方だった。
病気が解った時はもう全身に転移していてどうしようもなく、丁度夏休みの子ども達を夫と義姉に見てもらって私は病院に詰めていた。 義母の希望でもあったが私自身がどうしても看取りたかった。感謝の気持ちも有るが何より義母が好きだったから。
臨終のときは哀しかった。 隅で泣きじゃくった。
享年71歳。 若かったのに。
書いているうちに想い出がいっぱいで涙ぐんでしまう。
秋の気配を感じながら ― 2010/09/03
昨日の天気予報では35度の猛暑と出ていたが、早起きしてアトリエに向かうとき風がチョッピリ涼しいと感じた。
暑さ寒さも彼岸まで と昔から言うから後暫くの辛抱なのだろう。
アトリエは「形而上絵画」の2回目。
前回の水彩の上をアクリル絵の具で塗りつぶした。
早く乾くし塗り重ねが効くから思っている事がすぐに表現出来て、今回の課題には向いている。
隣で描いている友人も水彩から油彩に変更していた。
凄く楽しくて、あっという間に3時間が終った。
途中で先生に視て戴くと 暫し絵の前に座られて
「うん この絵 解ってくれる人少ないだろうけど 凄くイイヨ」
うわあ あとが怖いな。 最初は良かったのだけどなんてこと多いもの。
でも嬉しかった!
帰りにお仲間と一緒に一駅先のギャラリーまで歩いて先生の絵を観にいった。 水彩の小品だったが惹かれる絵だった。
ああいう絵が描けるように、少しでも近づきたい!
1時間半電車に乗って帰り、駅の外に出ると青空に鰯雲が浮かんでいた。 秋はもう来ている。
暑さ寒さも彼岸まで と昔から言うから後暫くの辛抱なのだろう。
アトリエは「形而上絵画」の2回目。
前回の水彩の上をアクリル絵の具で塗りつぶした。
早く乾くし塗り重ねが効くから思っている事がすぐに表現出来て、今回の課題には向いている。
隣で描いている友人も水彩から油彩に変更していた。
凄く楽しくて、あっという間に3時間が終った。
途中で先生に視て戴くと 暫し絵の前に座られて
「うん この絵 解ってくれる人少ないだろうけど 凄くイイヨ」
うわあ あとが怖いな。 最初は良かったのだけどなんてこと多いもの。
でも嬉しかった!
帰りにお仲間と一緒に一駅先のギャラリーまで歩いて先生の絵を観にいった。 水彩の小品だったが惹かれる絵だった。
ああいう絵が描けるように、少しでも近づきたい!
1時間半電車に乗って帰り、駅の外に出ると青空に鰯雲が浮かんでいた。 秋はもう来ている。
イジメなんて ― 2010/09/04
新学期が始まったようだ。 関係なくなって久しいが道で出会う小学生や中学生は元気で楽しそうだ。
新聞などでイジメを苦にしてなんて聞くとほんとうかなと思う。
テレビでタレントさんの学校で苛められた思い出話、ドラマでは当たり前のように出てくる。
少し若い世代に聞いたら、イジメって子どもの本能の様なものよ って。 そういう面もあるのかなあ。
小さなイジメが転がってて、子ども達は考え強くなって行くのかな。
昭和初期を振り返って そんなの有ったかしらと自問自答する。
私自身は加害者にも被害者にもなった覚えはない。 クラスでも全然気がつかなかった。
公立小学校では階級の差は子どもにも解ったがそんなことは関係なく仲良しだった。 欠点を指摘してからかう事も無かった。
だから昔は良かったという気持ちはない。 子供心に平等でない社会はおかしいと薄々実感していた。
子どもが自己主張できる雰囲気でもなかった。
もしかして 私の周囲がそうだっただけだったか、私がボーッとしていただけかも知れない。
半分くらいは本の中の友達と遊んでいたから、もし仲間はずれになっても苦にならなかったと思う。
大人になってからの方が人間関係はややこしい。 子ども時代の無口がウソのように正論をふりかざすから敬遠されたけれど親しい人も出来たし、ま 別に皆が同じ必要ないと苦にしたことはない。
でも年数を経ると考え方は違っても それはそれとして誰とも楽しく話が出来るようになったと自分でも驚いている。
子ども達のイジメの話を聞く度、
「そんなの 夕立みたいなものだよ。 それに卒業しちゃえば関係ないもの。 長い先の人生には楽しい事がいっぱいあるよ」
って言いたくなる。
新聞などでイジメを苦にしてなんて聞くとほんとうかなと思う。
テレビでタレントさんの学校で苛められた思い出話、ドラマでは当たり前のように出てくる。
少し若い世代に聞いたら、イジメって子どもの本能の様なものよ って。 そういう面もあるのかなあ。
小さなイジメが転がってて、子ども達は考え強くなって行くのかな。
昭和初期を振り返って そんなの有ったかしらと自問自答する。
私自身は加害者にも被害者にもなった覚えはない。 クラスでも全然気がつかなかった。
公立小学校では階級の差は子どもにも解ったがそんなことは関係なく仲良しだった。 欠点を指摘してからかう事も無かった。
だから昔は良かったという気持ちはない。 子供心に平等でない社会はおかしいと薄々実感していた。
子どもが自己主張できる雰囲気でもなかった。
もしかして 私の周囲がそうだっただけだったか、私がボーッとしていただけかも知れない。
半分くらいは本の中の友達と遊んでいたから、もし仲間はずれになっても苦にならなかったと思う。
大人になってからの方が人間関係はややこしい。 子ども時代の無口がウソのように正論をふりかざすから敬遠されたけれど親しい人も出来たし、ま 別に皆が同じ必要ないと苦にしたことはない。
でも年数を経ると考え方は違っても それはそれとして誰とも楽しく話が出来るようになったと自分でも驚いている。
子ども達のイジメの話を聞く度、
「そんなの 夕立みたいなものだよ。 それに卒業しちゃえば関係ないもの。 長い先の人生には楽しい事がいっぱいあるよ」
って言いたくなる。
李香蘭の思い出 ― 2010/09/05
昨日(9月4日)の新聞で懐かしい人を見た。
山口淑子さん 90歳のお写真だ。 相変わらず美しい。
戦前は李香蘭の名前で憧れのスターだった。
彼女が私より7歳しか離れてないことに驚く。
小学校4年生くらいのときだったかなぁ
珍しく一家揃って神戸の街で買い物したあと、父と兄は帰宅すると言い、母と姉は映画を観に行くことになって、私に「どうする?」と聞かれた。
一瞬迷ったが「映画観に行く」と答えたら二人がちょっと困った顔をしてひそひそと相談してたが結局 李香蘭主演の映画に決めたようだ。
題名も内容もすっかり忘れたが、スクリーンいっぱいにアップになった李香蘭が初々しくって美しくって! あの笑顔が今も眼に浮かぶ。
帰宅したら父が
「映画の方に行くとは思わなかったな」
と意外そうに笑いながら言うし、姉からは
「あんたのために子ども向きの映画になったのよ」 と。
母と姉は評判の洋画を見るつもりだったらしい。
まあ 何といわれても 李香蘭の素敵な姿を見ておいて良かったよ。
映画で観たのはあれ一回だけだったもの。
戦後、彼女が日本人と知って吃驚した。
帰国されてから 山口淑子の名前で出演した舞台を何回か観に行った。 子どもの時に観た異国情緒はなくまったくの日本人だった。
波瀾万丈の人生を経てこられたと思う。
90歳の彼女のお元気そうな写真を眺めていると、あの時の事を思い出し もう居なくなった父、母、姉、兄の顔が通り過ぎた。
山口淑子さん 90歳のお写真だ。 相変わらず美しい。
戦前は李香蘭の名前で憧れのスターだった。
彼女が私より7歳しか離れてないことに驚く。
小学校4年生くらいのときだったかなぁ
珍しく一家揃って神戸の街で買い物したあと、父と兄は帰宅すると言い、母と姉は映画を観に行くことになって、私に「どうする?」と聞かれた。
一瞬迷ったが「映画観に行く」と答えたら二人がちょっと困った顔をしてひそひそと相談してたが結局 李香蘭主演の映画に決めたようだ。
題名も内容もすっかり忘れたが、スクリーンいっぱいにアップになった李香蘭が初々しくって美しくって! あの笑顔が今も眼に浮かぶ。
帰宅したら父が
「映画の方に行くとは思わなかったな」
と意外そうに笑いながら言うし、姉からは
「あんたのために子ども向きの映画になったのよ」 と。
母と姉は評判の洋画を見るつもりだったらしい。
まあ 何といわれても 李香蘭の素敵な姿を見ておいて良かったよ。
映画で観たのはあれ一回だけだったもの。
戦後、彼女が日本人と知って吃驚した。
帰国されてから 山口淑子の名前で出演した舞台を何回か観に行った。 子どもの時に観た異国情緒はなくまったくの日本人だった。
波瀾万丈の人生を経てこられたと思う。
90歳の彼女のお元気そうな写真を眺めていると、あの時の事を思い出し もう居なくなった父、母、姉、兄の顔が通り過ぎた。
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