昭和初期の思い出ー夏休み(1)2009/08/01

戦前は夏休みは8月1日から31日まで。 8月イコール夏休み!
楽しかったなあ。 一日中好きに自由に遊べるんだ。 あの頃一ヶ月って永遠に近いくらい長いと思っていた。

宿題は「夏の友」だったかな、毎日の天気を書く欄が有ったり問題を毎日勉強する薄い冊子と絵日記と自由工作くらいで真面目な子は毎朝ちゃんとやってたらしいが私は「今しなくてもまだまだお休みは続くんだから」、、、。 

楽しい日はあっというまに飛び去る、気が付けば月末になっており、31日には切羽詰まって、それでも9月1日は始業式だけだから宿題を提出するのは2日だからと最後まで粘っていた。

その頃の親って放任主義、良く言えば子どもの自主性を尊重してくれて時たま「宿題ちゃんとしてる?」「うん」それだけ。

怠けた分は自分で何とかしないといけないから最後には苦労したけど思いっきり自由を楽しめた夏の一ヶ月は本当に良かった。
好きな本もいっぱい読めた。 好きな昆虫ともいっぱい遊べた。

9月の新学期にはリフレッシュした気分で学校生活もそれなりに楽しかった。
小学校の夏休みは毎年、同じようなことをやってて進歩はなかったと記憶している。

自分が親になった時は息子達に勉強を喧しく言い、夏休みの宿題など平気で夫と一緒に手伝ったのは時代の違いだろうか。

昭和初期の夏休みー22009/08/02

小学1年生の夏休みに初めて父の実家を訪れた。
女学生になりたての姉と3歳上の兄と3人で5時間くらい汽車に乗って着いたところは山に囲まれた小さな村だった。
駅には従兄が迎えに来てくれて、それから田んぼや畑の中の小道を30分くらい歩いてやっと家にたどり着いた。

本家だが祖父も伯父も私の生まれる前に亡くなって広い家に伯母と従兄だけがひっそり暮らしていた。
祖父は普請道楽だったそうで2階の二間続きの座敷は凝っていた。 夜 3人並んで寝て天井を見上げると子供ながらに天井板が立派だと思った。 今思うと山国のせいもあったかも。
駅から歩いた道から見えた家も皆黒光りのした瓦葺だったから豊かな田舎だったのかもしれない。
父の生家は農家でも商家でもなかった。 何で生計をたてていたのだろう。 父からそういう話を聞いた覚えがない。 ただ教育熱心で田舎には珍しく6人の娘たちもそれぞれ進学させたそうだ。
 こういう話はのちに聞いたことだ。

小学1年生の私は初めての田舎の何もかもが珍しくて楽しくて一人で野山を歩き回っていた。 広い土間に井戸が有り、土間の片隅のお風呂にくみ上げた水を手桶で運び、お風呂には電気がなくてランプが置いてある。 そもそも座敷の電気も暗くならないと点かない! 夜、お手洗いには真っ暗ななか行くのである。
私はハイジになったような気分でわくわくすることばかり、伯母さんはことに可愛がってくださるし、1週間くらいだったと思うがあっという間に日が経った。

兄は従兄と前の川で水遊びや魚やサンショウウオまで捕って楽しかったようだが都会好きの姉はもう行かないとあとでこぼしていた。

朝のラジオ体操をしに村の神社の境内に一人で行ったが話しかけてくれる子はいなくって私も無口だったから友達はできなかった。
テレビのない時代に山奥の村と都会は服装だけでも違いは大きかった。 何だか遠巻きに眺められてた感じ。 戦後とは全然違う。

田舎の自然が大好きになって、3年後の夏休みには私一人で遊びに行った。 あの汽車がまた良かった! トンネルに入る時、出る時の汽笛! 振動音! 山や畑ばかりの景色も美しかったなあ。

ヒロシマ あの日2009/08/06

昭和20年から8月は鎮魂の想いの悲しい月、普段は心の奥底に沈んでいる戦争のこと、亡くなった多くの方たちの姿が蘇って辛い気持になる月だ。

「新型爆弾で広島がやられたそうだ」
「たった一個の爆弾で広島は壊滅したそうだ」 などの噂が巷に流れ、家族や知人の安否を心配した人たちは無理をして広島に行き廃墟の中を探し求め、探し当てることもできず戦後何年かして原因不明の病で亡くなったかたもあった。

9日には長崎が被ばくした。
近所の男性たち(高齢者ばかり)は次は「ここらしい」などと声をひそめて囁き合っていた。 「日本は本当に勝てるのだろうか」とつぶやく人もいて誰もが不安な表情だった。

本当の惨状を知ったのは終戦後のことである。

無謀だったと言われる戦争への傾斜には貧困、国際的な圧迫、世界情勢など種々な原因が有り、その度にいくつかの選択肢があり、徐々に悲劇の向かってひた走り自滅した。 為政者にも国民にも世界の各国にもそれなりの理由は有ったのだろう。
だが結果は戦争の愚かさを多くの犠牲をはらってやっと気がついた。

平和公園での式典を見ながら亡くなられた方々、被ばくで苦しむ多くの方々に黙祷した。

どんな理由があっても人を殺してはならない。 戦争は愚だ。
核のない世界にしなくてはいけない。
世界中の一人一人のささやかな幸せを守るために人類はもっと賢くなろう。

手紙 親愛なる子供たちへ2009/08/08

先日、徹子の部屋でこの歌を聴いた。
それ以来心のどこかにひっかっている。 ネットで全文を読んだ。温かい優しい詩だと思う。 でも何だか素直になれない自分がいる。
人生の丁度真ん中の世代の方が老いた両親の姿に自分の将来を重ねた心情を素直に吐露したものだろうか。作詞者不明だからつい歌ってる方の想いとして受け取ってしまうのだが。

私の今の気持ちを敢えて言葉にすれば

しんあいなるこどもたちよ。うまれてきてくれてほんとうにありがとう。おむつをかえ ちいさなたらいでそろっとあらい りにゅうしょくをすぷーんでくちにはこび ねがえりした はいはいした たちあがった あるいた ことばをおぼえた なにもかもがおやのよろこび!
いっぱいのおもいでをありがとう。 あなたたちがいてくれたおかげでわたしたちのじんせいがいかにじゅうじつしていたか。

それだけで十分だ。 おたがい思いやる心は言葉にだすと変形していまいそう。
82歳の親は思う。 元気でせいいっぱい自分たちの人生を生きてほしい!  私のことなんかで心配しないで! 悔んだりしないで! あなたたちの幸せが私の幸せなんだから。

この思いは私だけではないようだ。 クラスメートや同じ世代の友人は皆若い世代に迷惑はかけたくないための知恵を語り合う。でも最後には先のことはわからないよね。その時はゴメンだよねと笑いあう。 愛してるからこそ甘えてはいけないと思うのだ。 ツッパッテル世代なのかも。

脳科学2009/08/10

以前に日経サイエンスを購読していたので今でも新刊案内のメールがくる。 別冊脳科学のフロンティア「意識の謎 知識の謎」 何だか面白そう! 2100円張り込んで買ってきた。
宇宙の広大な話も嫌いじゃないが自分の持ってる脳ってどんなものなのか。 ちっぽけな束の間の生命のなかの膨大な未知の分野に興味津津だ。 つくづく物好きだと思う。
    まだ目次をみただけで感想は後日。


幼かったころ父が読書好きで座敷の大きな本棚には世界文学全集、漱石全集、近松全集、日本文学全集や単行本の数々が、母の好みで蘆花全集、羽仁もとこ全集など、そして一番下の段には児童文学全集と聖書物語の全集がずらっと並んでいた。 この本でどれだけ楽しめたか、両親に感謝する。
幼稚園を拒否した私は片っ端から読んで知らない世界を夢見た。字を教わった記憶はない。 いつか母が「字、読めるの?」って驚いたからネエヤが教えてくれたのだろう。 昔の本はルビが振ってあったから子どもにも読めた。 本の思い出は尽きない。いつかゆっくり書き留めておきたいと思う。 記憶のうすれないうちに。

世界児童文学全集は赤い背表紙が外国童話、青い背表紙は日本のものだったような、そのなかに科学ものもあって未来の家などは今とそっくりだった。
科学が好きになったのは小学校4年くらいの時だろうか、父が私のために「こどもの科学」毎月買ってきてくれるようになったからか。 岩波文庫のの「ファーブル昆虫記」も次々買ってきてくれた。 父が何故私にはそういう本を買ってくれたのか判らないがただ嬉しくて夢中になった。

5年のころ自分で買ってきた「脳のはなし」を読んでるのを見た父はページを繰って「近頃はこいう素人向けの本もでてるのか」とちょっと感慨深げな顔をしたのを覚えている。
恋愛や感情のぐちゃぐちゃした文学はどうも性に合わないのは昔からのようだ。

まあ そんなことでこの本を読むのが楽しみだ。