母のこと2009/07/02

母は明治35年7月2日生まれだ。
瀬戸内海に面した地方都市の商家の末っ子で可愛がられて育ったらしい。 
昔の商家は丁稚さんたちが住み込んでいて板の間に並んで麦飯と粗末な食事を家族と一緒に取るのだが祖母だけは別格で離れで白いご飯だったという。 末っ子の母は常に祖母と一緒に食事していたそうだ。 祖母に連れられての外出、小さい時から習っていたお琴の発表会の模様などを珍しく話してくれたことがある。

母の父は信心深い人だったようで長女を都会のキリスト教関係の女学校に進学させ、夏休みに帰省した彼女からキリスト教の話を聞き感銘を受けたらしく一家をあげて入信した。
母は幼児洗礼を受けてその信仰は一生続いた。

19歳で10歳年上の父と結婚。
父系の伯母たちの話では少女気の抜けない世間知らずの可愛いいお嫁さんだったらしい。
父は山奥の生まれで8人兄姉の末子、兄が二人いたから気楽な身分で医学部に進み母の近くに赴任してきていて世話する人がいたらしい。
育った環境の違い、信仰の(父は無信教)違い、6人の小姑、おまけに暫らくして父の兄二人が急逝して実家の面倒が父の肩にかかることに。

私が生まれる頃には阪神間に移住していたけれど父方の親戚の誰かが家に寄宿していたりいろいろ母は苦労した思う。
これは亡くなった姉から聞いたのだが、父母は協定を結んだのだそうだ。
苦労かける代わりに自由に友達と好きなことして遊ぶように、母の信仰には介入しない、しかし子供の前では決して喧嘩をしないことなど。

余所眼からは我儘な有閑マダムと見えたかもしれないが母は親戚の面倒などやるべきことは明るくこなしていた。
晩年の母はこどもに頼ることなく自分の世界をつくり逆境のなかでも明るくふるまっていた。 強かったなとつくづく思う。

 46歳で直腸癌、治癒後57歳で胃癌で昇天。

久しぶりに裸婦を描く2009/07/04

アトリエに行く日。
6年前に引っ越してから2時間かかるが好きなことはやめられない。

まず いろんなポーズで4枚クロッキー(5分)を描き、多数決で後ろ向きのに決まった。 体をひねった腰掛けたポーズで私もこれに手を挙げた。 4回仕上げだから今日は気が楽。 鉛筆で輪郭を描いたが納まりが悪いので5センチほど右にずらして描きなおす。
ガッシュ絵具を用意してきたがモデルさんの美しい肌をみていると透明水彩で描きたくなった。 3時間夢中になって描く。

今の先生に教えて頂くようになって15年くらいだが絵画には親しむ機会は多いほうだったと思う。
幼い頃お隣の男の子の家に毎日遊びに行きお父様がアトリエで終日キャンバスに向かってる姿を見た。 公募展では落選続き、貧乏で奥さまのヌード描いてるなどの話を聞いたがモダンで明るい雰囲気が子供心にも好ましかった。 間もなく引っ越された後に学校の絵の先生が入られた。 アトリエが有ったからだろう。
そのころ5歳上の姉が絵の才能があると言われお隣の先生の紹介で油絵の画家のお宅に通うようになった。
小さい頃から展覧会をよく観にいったのはそのお蔭だ。
商社マンになりたての従兄がフランスなどで画集を姉へのお土産に買ってきてくれ私も憧れた世界! 秘かにミケランジェロの模写してみたり。
父がン十冊かの美術全集を購入したときは子供ながら興奮した。
ほとんどモノクロ写真だったのだが。

女学校に入り習いごとは何にする?と母に聞かれた時、絵しか思いつかなかったが子供心にも姉にはかなわないと思い日本画と答えた。
礼儀正しく決まりごとの多い昔風の日本画はあまり性に合わず戦争のせいもあって3年余りで終わった。

再び絵を習いだしたのは60歳半ばからだ。いくつか転々として今の先生にたどり着いた。
先生の絵もお人柄も信念もすべて尊敬している。 その先生に直接教えていただけるアトリエの時間は貴重だ。 そして絵を描く楽しさ! 元気が出る。 素人の自由さがいいのだろう。 いわゆる上手になることに興味はない。

昭和13年の阪神大水害2009/07/05

昭和13年7月5日
小学5年生だった私は前日まで風邪で休んでいたので母が学校まで送ってくれた。
数日続いた梅雨末期の大雨で家の前を川は橋桁すれすれまでの濁流、普段は水のない白い砂ばかりの川なのに。
学校に着くと豪雨を心配して付き添ってこられたクラスメートのお母様が不安げに話しかけられた。 数時間後避難された群れの中にお見かけすることに。
確か授業が始まったばかりのころ、川が氾濫したとの情報が先生にもたらされた。 工作室にいた記憶、何を作っていたのか覚えてないが慌ただしい先生方の行き来に関係なく皆黙って工作していた。
休み時間に雨天体操場に行って驚いた。広い板の間は避難してきた町の家族で埋まっていた。
川の上流で堤防が切れ六甲山から怒涛の勢いで流れてきた土石流が住宅街を襲ったとか。
町立の小学校は町の中央にあり、当時にしては珍しい鉄筋3階建ての立派な校舎で新興住宅地の人口増加でもう一棟建て増し両棟を繋ぐ形で広い雨天体操場が作られていた。
  記憶に新しい阪神大地震のときもこの校舎は健在で避難場になっ
  てる光景をテレビで見た。
避難現場の近くで母は炊き出しの手伝いをしていた。 帰ろうとしたとき既に避難の方々が次々見えてそのままお世話をすることになったらしい。
生徒はそのまま授業を受けて普通に帰ったように思う。
私自身に緊迫感はなく一人で帰宅途中、朝の濁流が嘘だったように流れはなく茶色になった川底が見えていたのに驚いた。
上流の決壊で流れが変わり海の近くの我が家には何の変化もなかった。
姉は山麓の女学校に通っていたので土石流の直撃を受けた。
後日の記念文集で読むと、皆生きた心地はなく持ってるお守りを教壇に集め助けてと祈ったそうだ。
女学校のすぐ後ろを走る省線電車が立ち往生して、校舎の窓とをロープで繋ぎ濁流の上を渡る避難騒ぎもあったようだ。 無事到着するたびに女学生たちは拍手し声援を送ったとも。

夜遅く姉は級友を二人ともなって帰ってきた。交通機関麻痺で彼女たちは帰宅できなかったらしい。
今思うとのんきな話だがその夜姉たちは合宿気分で夜更けまで談笑してる声が聞こえてきた。
数日して被害にあった地域の友人宅を訪ねると一階は天井近くまで土砂で埋まっていて水害の恐ろしさを実感した。
私の知人で亡くなった方はいなかったが2年後姉の通った女学校に進学してから、小学部から来たクラスメートには姉弟を亡くしたひとが何人かいて話をきいて痛ましかった。 校舎を直撃されたらしい。

すぐに小学校の前の空き地に仮設住宅が作られ半年か1年くらいそこに生活している方々の姿があった。

17歳まで暮らした阪神間ほど愛着のある地はない。幾たびかの試練を明るく助け合ってきた新興住宅地ゆえのしきたりや差別の少ない温かさが好きだ。 こどもでよく分からなかったが今にしてあの災害で亡くなられた六百数名の方々の冥福を祈る。

年齢にはこだわりたくない2009/07/06

「気がつけば82歳」自分で選んだタイトルをちょっと後悔している。
2001.7.7に書いたエッセイを思い出して再読して ウフン ちっとも変わってないなと苦笑した。 なのに自ら年齢を売りにすることないじゃん、8年たって自分では気がつかない変化があったのかも。

そのエッセイの抜粋です。
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 「若さ」という言葉に思うこと。
最近続けてサムエル・ウルマンの「青春」という詩を読む機会があった。
「青春とは人生のある期間ではなく、心の持ち方を言う。・・・」から始まって若さとは肉体の外見の美しさではなく、「たくましい意志、ゆたかな想像力炎える情熱をさす。青春とは人生の深い泉の清新さをいう」と続く。そして「年を重ねただけで人は老いない。理想を失うとき初めて老いる。」
要は青春とは心の様相をさすのであって
「60歳であろうと15歳であろうと人の胸には、驚異に魅かれる心、
おさな児のような未知への探究心、人生への興味の執着がある。」「から神から美・希望・喜悦・勇気・力の霊感を受ける限り君は若い。」
それをなくしたとき年令に関係なく人は老いると詩っている。
   「」内は宇野収、作山宗久共著「青春」という名の詩 より引用。

同じ本のなかで松永安左ェ門訳の一節では
 「人は信念とともに若く 疑惑と共に老いる。
  人は自信と共に若く  恐怖と共に老いる。
  希望ある限り若く   失望と共に老い朽ちる。」とある。

素晴しい詩だと思った。勇気も与えてくれた。
生意気なことを言えば、人を年令によって差別することの無意味さを主張し続けネットでその信念で会議室をやってきて、外見を見ずに言葉による意識の交流のなかで心の様相は年令に関係ないと益々感じている。それを裏づけされたような思いで読んだ。
だが 表面的に考えると当たり前過ぎないか。共感は有っても感激はなかった。これはもしかして この詩にうたわれているように既に老いているのだろうか。そして若さというものがそんなに理想的なことなのかと言う疑問を持つた。自分を振り返ったとき、若さとは未熟そのものだった。人間は年を重ねて成長するものだと思っている。

無論この詩はもっと高遠な理想を述べていることは判っているつもりだ。
青春、若さというより人間本来の理想像をさしているのだと思う。
同時に彼の時代背景、厳しい個人環境もあったと思う。
またこの詩には深い信仰の基盤がある。批評する気なんて毛頭無い。
ただここにうたわれた青春とか若さとかの言葉の連想がら考えたことを言っているに過ぎない。
そんなことを取り留めなく夫と話していたら「それは若いという言葉に思い込みがありすぎるのでないか」と言われ、あっ こだわりの裏返しかなとまた考え込んだ。
確かに年寄り扱いされると腹が立つ。神経質だと我ながら思うのだが若僧とかチビッコという語感も嫌いだからお互い様だ。(後略)
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ああ これを書いた時には夫の傍にいた。 話し合って意見が聞けた。失ってその大きさに気が付く。 独りよがりにならないように自戒しなくっちゃ。 タイトルは当分このままでいこう。

戸塚洋二氏のテレビを見て2009/07/07

5日夜.NHKhで放映された「物理学者.戸塚洋二.がんと闘う」の録画を昨夜観た。
実はその日、友人のご主人が仏教関係の機関誌に書かれた文を読んで感銘を受けたところだった。 宇宙物理学に詳しい方でカミオカンデのお話などを伺ったことがある。
刺激されて、ちょっと重いなあと逡巡していたDVDを見た。

感激しました。 実験物理学者って凄い!
ニュートリノ振動を発見し、従来質量ゼロとされていたニュートリノが質量を持つということに繋がる。 これによって宇宙観が変わる。それを証明するため世界最大規模のスーパーカミオカンデの建設、実験が始まる。
日経サイエンスの2008年4月号から「カミオカンデとスーパーカミオカンデ 物理学を変えた四半世紀」の連載が始まり 協力:戸塚洋二 とある。 それが9月号には協力者名が変わり文末に小さく(戸塚洋二氏は7月10日、永眠された)との文字が。
その前の8月号では戸塚洋二氏の特集記事が載っていた。
     (関係ないが私はこの後定期購読をやめている)

テレビでは彼の3年余に及ぶがんを見据えた生活を仔細に伝えている。 ブログで科学者の目で見た転移の経過や、脳の腫瘍の大きさの変化を図にして書き込んでいる。
死生観、親しくされた僧侶の方とはどういう話をされたのだろう。
死は最後の実験だが結果を他人に伝えられないのが残念というようなことを笑いながら話されていた。
打ち込んでこられたスーパーカミオカンデの実験の結果を見ることなく逝かれた。

今朝、文を送って下さった友人にお礼の電話をした折にご主人に宇宙観と仏教についてお考えをいろいろ伺った。 幼稚な質問はご迷惑だっただろうと切った後で恐縮した。

何億年の昔、何億年後の宇宙、一人の一生は小さな小さな存在だけど考える人間って凄いなあと思う。