昭和に生まれて(3)2019/10/15

ー最初の記憶 ―
2~3歳になってたと思う。 昭和4~5年だろう。
だだ広い座敷の真中に小児用の滑り台だけがあって隣家の男の子と黙々と梯子段を登り滑る。 また登って滑っていた。
縁側の硝子戸は開け放され涼しい風がそよかに流れ込んでいた。
ただ それだけの光景がぽっかりと。

次には、父が竹棒の先に殺虫液を入れたコップを結わえて天井にに止まった蠅か小虫を退治していた光景だ。
発明好きだった父の考案だったらしく捕れるたびに得意そうにしていた父の顔が浮かぶ。

この家で姉と兄が赤痢?になりお医者さんと看護婦さんが慌ただしく出入りする日が続いた。 
私は罹らなかったが一人ぼっちで黙々と耐えていた。 
姉の昔話では、あの時は貴女が大人しくしていて助かったと母が述懐してたそうだ。

不衛生な環境と親は考えたらしく住宅地に引っ越した。
引っ越しはワクワクする出来事だからよく覚えている。

新しい家はモダンな洋風の家だった。ベージュの壁に赤い屋根で2階の洋室の外はバルコニー、キッチンも洒落ていた。
外国の絵本に出てくる家のようで私は嬉しかったが両親は気に入らなかったらしい。(お隣が絵描きさんだったのはこの家だ)

2年くらい居ただろうか、すぐ近くの新築の家に引っ越す。
我が家は、ずーっと借家住まいだったから新しく家が建つと見に行って気に入ると気軽に引っ越したようだ。 
本家のことがあるから定住するつもりがなかったのか、単純にお金が無かったのか子どもの私が知る由もない。

阪神間は胡瓜の栽培などが盛んで、浜のほうは鰯漁がおこなわれていたのが、大正末期頃からか大阪神戸のベッドタウンとして住宅地に変貌する。
立派な洋館も多かったし、サラリーマン向けの文化住宅や日本家屋といろいろだったが、町並みはそれなりに調和を保って美しかった。

数え年4歳の正月に初めて「オカアチャン」と喋って両親が安心したという私はオクテだったと思う。
生後一年で重いハシカを患いもう駄目かと親は覚悟した話を聞くが無論、覚えてない。 

最初の記憶ってセピア色の写真のような、夢のワンシーンような不思議なものです。
               (2009/07/09のブログより)

添付写真は、一才未満の頃の私。
昭和初期には、手軽なカメラも普及してなかったから日常の写真は殆ど無い。
この小さな写真は、私をとても可愛がってくれたネエヤ(お手伝いさん)が、こっそり写真館で撮ってくれたものと後年に母が笑いながら話してくれた。
私が物心つく頃には、もうお嫁にいかれたのだろう、全然覚えてないけれど懐かしい。