兄の想い出2015/03/07

満月
朝ドラを観ながら戦争末期の頃を思い出した。

3歳違いの兄は色白で眼がパッチリしていて幼い頃の写真を見るとほんとうに可愛いい。
姉に続いて生まれた男子を父は喜んで、母に「男の子はわしが育てる」と宣言したと後に母から聞いた。

次も男の子を期待していたのに私で母はガッカリしたらしい。
幼いときは坊ちゃん刈りに近い髪型で半ズボンで木登りなどしてたから男の子とよく間違われたな。

中学受験のために早くから家庭教師の若い先生が毎日のように見えていた。
進学塾などなかった時代だ。

念願の中学に受かって、テニス部に入って白い縄編みの洒落たスポーツセーターをデパートで誂えてもらった時に見本は裾に赤い線が入っていたのを厳しい学校だからと除いてもらった時の兄の顔が残念そうだった。

結構お洒落な兄だったなと変に細かいことを覚えている。
大事にされていたけれど男性優位の社会で期待に応えなければならないシンドさも有っただろうと大人になってから思った。

高校進学の頃には戦争が激しくなって文科に進むと兵役猶予が無くなるそうとの話を聞くようになった。
父は開業はしていなかったが、医師になって欲しかったらしいが兄は理科系を拒否して父は少し淋しそうだった。
心配だったのかもしれない。

旧制高校に入って家を離れ、弊衣破帽に黒いマントを翻して家元を離れた自由を満喫していたらしいが2年か3年の時に学徒出陣が決定する。

もう戦局は厳しく、特攻隊のニュースが新聞に載るようになった。
生きて帰れるとは思えない。
姉は技術者の義兄と結婚し、私は京都の学校の寮に入っていて、父母はどんな思いで二人で暮らしていたのだろう。

入隊の為に帰って来た兄の壮行会のお酒を隣組だった灘の蔵元さんに特別にお願いして都合してもらったと後で聞いた。

もうその頃は公の見送りは無くなっていてヒッソリと近くの阪神電車の駅まで家族と友人で見送った。
その時は私も帰宅したが、日の丸も激励のバンザイもない淋しい別れだった。

ただ高校の友人が4、5人駆けつけてくれて、駅前で兄と一緒にスクラムを組んで高校の寮歌を叫ぶように歌ってぐるぐる回ってくださった。 ストームだ。

終戦の前年の晩秋の頃だったろうか、もう記憶が朧だ。

朝ドラを観ていて戦争末期の頃を思い出すことが多い。
兄は終戦時にはまだ内地で訓練中だったので9月にはボロボロの格好をしてともかく無事に帰って来た。

生前、兄とその頃の話はすることがなかったから、あのころの兄の思いを聞かないままだ。

あっ 添付写真は一昨日だったか夜カーテンを閉めようとして見えた月が奇麗だったので。
カメラをチョットいじって撮ったら望遠鏡で見るみたいの月になって吃驚でした。