「ねえや」考2014/03/23

「86歳のブロガーの・・・」を多くの方に讀んで戴けて嬉しかった。
周囲の方々の厚意が身に沁みて長生きして良かったなぁって感謝することばかりだ。

余り昔のことを話さないほうだから、ねえやが居たって凄くリッチだったのね、などと言われて時代の差を改めて思った。
そう言えば著名な作家の思いで話に昭和初期の阪神間の「ねえや」普及率は高かったことが書かれていた。

平均的なサラリーマンの中流家庭では普通のことで、富裕層になると複数になり爺やがいたりした。
「ねえや」という言葉は子ども達はお姉さんのような感覚で親しい呼び名だったが当時既に羽仁もと子さんは「お手伝いさん」という言葉を提唱されている。

高等小学校を出たばかりの同じ県の農家の娘さんが家事見習いを兼ねて花嫁修行という面も有ったようで5〜6年経つと結婚して新しい娘さんがやってきた。

母は先ずワンピースの作り方を教えて着せたり、セーターの編み方を教えたり、料理から家事万端手伝わせながら独りで出来るようになるまで面倒見てたから結構大変だったと思う。

昔の家事は今では想像出来ない程大変なことだった。
電気掃除機、電気冷蔵庫などの家電類は全然無かった時代だ。
お風呂だってスイッチをポンてわけにいかない。
暖房も炭をおこし、湯たんぽ、あんか・・みな手がかかる。

季節毎の障子の張り替え、年に一回は布団の綿を打ち直して仕立て直す。
着物も解いて伸子張りして縫い直す。
我が家は井戸だったから手押しポンプでタンクに汲み置きするのも力仕事だった。

父親は家事は一切しなかったな。
こどもは少しは手伝ったがあまり強制された覚えは無いから少し贅沢だったのかも知れない。
友達の家にもよく遊びに行ったが、手伝ってる姿は見なかった。

まだまだ想い出はいっぱいあるが、今日はたまたまアルバムで見付けた古〜い写真を貼付。 肖像権ももう時効だろう。
母の話では私を凄く可愛がってくれて勝手に写真館で撮ってきたそうだ。
奇麗なお姉さんだったのだとつくづく眺めた。
母が抱いてくれた写真など私にはないもの。