今年もお見合い記念日に2013/07/01

こんな胡蝶蘭も
7月には想い出が多い。
今日は54年間連れ添うことになる夫に初めて会った日。
そう お見合い記念日だ。
去年のこの日の他にも何かでおもいだしては書いているのだが・・。

昭和25年(1950)の今日お見合いして11月4日に結婚式をあげたのだ。
付き合い期間短かったな。 デートは数えるほどしか。

彼は28歳、私は23歳で当時の常識ではギリギリの年齢だ。
戦後になってお見合いも紹介するだけで、あとは当人同士で決めればいいと割合自由だったから、父母の友人が次々とお話をもってきてくださって随分お見合いした。
戦後に父が亡くなって、結婚してないのは私だけだったから親切に心配してくださったのだと思う。

それなのに結婚願望なくて申し訳なかったのに、何故かあの時珍しく心が動いたのは何故だろう。
全然自分に自信が持てず、将来の希望も描けなくて新しい世界に飛び込みたかった。

54年間一緒の生活は私には過ぎた幸せを貰ったと感謝している。
今ではお見合いなんて死語だろう。
でも案外良いとこもあるのではと自分の経験でそう考える。
お節介な(失礼)方々のお陰で私は結婚出来たのだもの。

母の誕生日に2013/07/02

強く美しく
今日は母の誕生日だ。
明治35年生まれで57歳で亡くなった。
父が終戦後公職を離れて医院を開業して2年も経たずに他界して、兄も結婚して家を離れた。
初めての母と二人きりの生活になって内心嬉しかった覚えが有る。

末っ子のせいか、多分私の性格だろうけれど母とは何時も距離を置いていた。
「手の掛からない子」が私の定評で、日曜日の礼拝にだけは必ず一緒だったのは姉も兄も厭がったのだろう。
幼いなりに厳粛な雰囲気と牧師さんのお説教を聞くのが好きだった。

母と二人だけの想い出ってそれくらいしかなくて小説やテレビドラマの家族とは違っていたなと今頃になって思う。
きっと陰で気を配っていてくれてたのだろう。
愛情不足なんて感じたことは無い。
むしろ干渉されずに気侭に好きなことをさせて貰ったことに感謝している。

母は姉と友達のように賑やかに話し合って映画にも行っていた。
父がゴルフや、プラネタリウムや文化映画などに連れて行ってくれたのは父なりの心配りだったような気がする。

それでも生まれて初めて母を独占した気分、勤務先の出来事や他愛無い話を友達のように話し合えるって嬉しかったな。
何時も明るくてお嬢さん育ちって伯母たちからは言われてた様だけど親族の世話は大変だった筈なのにグチを聞いたことが無い。

父の亡くなった後は経済的にも苦しかっただろうに亡くなるまで自立して趣味だった人形作りの教室を開いたり、若い新聞記者の溜まり場になって親身に世話をしていた。
芯はしっかりしていたのだなぁ と母の歳をはるかに超えて沁みじみ想う。

戦時下の話を2013/07/03

夏の鴨川
先日、戦争時の話を聞かれた。
だんだん戦争体験者が少なくなって、若い方には私達が日清戦争や日露戦争の話を幼い頃にお年寄りから聞かされた感覚なのかもと想像する。
いや明治維新の話に近いかも。

なんてことを考えながらあれこれ思い出すままに聞いて戴いた。
上手に質問をしてくださったので当時の状況が蘇えり、あの頃の日本の置かれた状況をや苦しみ、戦争に傾斜して行った原因と経緯を振り返る。

何冊かの本は讀んで見たが所詮、私などに総てが判る訳が無い。
でもどんな理由があろうと戦争で解決しようとするのは野蛮だ。
何処の國の人であろうと命の尊さに変りはない。
愛する子どもや夫が戦争に行かされるあの哀しみだけは繰りかえされることのないようにと若いお母様がたに伝えたかった。

もうすぐ8月がまた巡ってくる。
戦時下を過ごした京都の懐かしい鴨川風景を。

少しホッとして2013/07/04

八重百合が
半月余り、もたもたしていた宿題を何とか仕上げて郵便局へ行った帰りに百合の花が眼に飛び込んで来た。
葉も蕾みも確かに百合だと思うのだけど八重咲きって初めてだ。
塀に沿って何時も季節の花が絶えなくて散歩するのが楽しみな道だ。

関西のクラスメートからお嬢さん主宰のバレエ発表会のお知らせを貰って嬉しくて早速電話すると元気な声が返って来た。
あれこれ話が弾んで懐かしい名前が飛び交ったが、持病の足腰の痛みは益々酷いみたい。
「何時まで独りでやっていけるかしら? やっぱり住み慣れた関西から離れたくないし・・・」
ホームの入居に踏み切るには色々な不安があって迷う歳頃だ。

「バレエ、東京に出て来れる?」
「行きたいって思ってるけど」
「会えるといいね」
「でも貴女も無理しないでよ」
お互い 歳だなあ 声だけは変らないけれど。

その後で関東の友達に、打ち合わせしようと何回か電話したが通じなくて心配になる。
このあと、また掛けてみよう。

忘れられない阪神大風水害2013/07/05

昭和初期の六甲山
昭和13年7月5日の阪神大風水害は75年経った今も鮮明に焼き付いている。
このブログを始めて間もない2009年の7月5日に詳しい思い出を書いているのを読み返して感慨ひとしおだった。

重複するけれど、当時の我が家は住吉川の下流沿いの海から3軒目だった。
あの日の朝、登校のために門を出て見た川は橋を越しそうな勢いで茶色い水が海に向かっていた。
阪神間は六甲連山と海の間の細長い土地で川は多いけれど普段は申し訳程度の水流で殆どは砂地だった。
小学校の校歌でも 確か
「すみよしが〜わの ささなが〜れ ♪」
と。

2〜3時間後に惨事が起こるなど予想も出来なかったが、前日まで風邪で休んでいた私を珍しく母が気遣って学校まで送ってくれた。
母は何か予感があったのだろうか。
2時間目の工作室での授業が始った頃に先生方が慌ただしく出入りされて、住吉川が決壊したという声が聞こえてきた。
休み時間に雨天体操場が避難されて来た方々でいっぱいになっているのを見て驚く。
母も炊き出しなどのお手伝いをしている姿が見えた。

今考えると不思議なのだが、授業は何時もの通りで帰り道には変化は無く川沿いの道まできて、朝の濁流がスッカリ消えて川底が見えていたのに吃驚した。
我が家にも何の被害も見られなかった。

後で知ったのだが上流の堤防が決壊して六甲山の土石流が山と海の間の山に近いほうと海の傍の低い土地の住宅街を襲ったのだ。
我が家は1年前に海辺の小高い地に引っ越していたので助かったが、前に住んでいた家の一帯は一階の天井近くまで土砂に埋まっていて気の毒だった。

姉が通っていた女学校は山麓で怖い思いをしたようで、夏休み返上で土砂で埋まった校舎の復旧作業に通っていた。
2年後に私が入学した時にはその土砂のお陰で校舎の裏手は洒落た築山に花や木が植えられ散歩道も出来て憩いの場になっていた。

六甲山の無計画な住宅やゴルフ場などなどの開発のせいだと批判も聞かれた。
御影石の産地でもあったから大きな岩石も流れて来て被害を大きくした様だ。

親に庇護されていた11歳の女の子の思い出はただ驚きだけで悲惨さは無い。
知人が皆無事だったからだろう。
六百有余の方々が亡くなられたことを知ったのはずっと後になってからだった。

大人になってから「細雪」の小説とお芝居も観て懐かしかった。
住吉川の上流に「谷崎」って表札がかかった立派なご門を見かけた朧げな記憶がある。