昭和初期のデパートの想い出2013/06/12

黄百合(ポップに)
テレビで「輝いていた昭和」の百貨店の文字に惹かれて見始めたが司会者が20年くらい若いから戦後の話で消そうと思っているうちに大正の創始期の映像が出て来た。
当時の建築の豪華さに改めて感心した。

子どもの頃、白木屋の火事を大人が話していたのをうっすらと覚えている。
1932年12月16日にクリスマスイルミネーションを出火原因とする火災が発生、14名の死者と負傷者が多数出たそうだがその頃の女子従業員はまだ和服で窓から飛び降りるのを躊躇したためと。
それがキッカケで女性の下着革命が起こったという大人の話も小耳にはさんだ。

物心ついてから小学生の頃までデパートに連れて行って貰うのが楽しみだったな。
大抵母の友人家族と一緒に阪神電車で10分あまりの神戸のデパートだ。
先ず呉服売場、反物を次々拡げてもらって決まるまで子ども達は大人しく待つ。
母たちの延々と続く品選びの次に時たま子ども服の売場で採寸してもらって他所行きを誂える。
既製品は下着や靴下以外はあまり見かけた覚えがないがマネキン人形を見た記憶も・・・。
帽子だけは色々並んでて小さな丸い鏡の前で被って選んだ。

買い物は売場から地下に運ばれて纏められ帰る時に受け取る仕組みになっていた。

買い物が終ると子ども達の最大の楽しみ、それが大きな目的の大食堂だ。
最上階の広いフロアに10人以上坐れる白い布をかけた大きなテーブルと椅子が並び、卓上にはお盆に熱いお茶の入った土瓶と湯呑みが置かれていた。
真鍮製の呼び鈴を押すと紺の制服に白いフリルの付いたエプロン姿のウエートレスさんがすぐに現れて注文を聞いてくれる。
ライスカレー、オムライス、海老フライなどが記憶に残っている。
お子様ランチはまだなかったのか頼んだ覚えは無い。
35銭から50銭程度だったと思う。

屋上に行って遊んだのはごく幼かった時だけで末っ子というものは何時も背伸びして上に合わせて来たなと振り返る。

帰りに買った品を受け取って、タクシーで帰った。
その頃のタクシーは前の座席の背に補助席がついていて子どもを入れて8人ぐらいは乗れるほど大きかったし、円タクって呼ばれるくらい安かったのだろう。

時には大阪のデパートにもお供した。
梅田、心斎橋の幾つかの老舗の大きなデパートはホテルのような風格があったなと懐かしい。