三月になって2013/03/01

女性像2回目(制作途中)
アトリエ、前回の続きだ。
ブログに添付したのを眺めて左の余白が気になっていた。
何か入れたいけれど適当なものが思い浮かばない。
2〜3日前かな、ふっと ヴェネツィアの景色を思い出し写真を漁って3枚ほど持参した。

入れたいのは決まっている。
最初に先生に相談するとやっぱりそれだった。
問題はゴンドラの位置と大きさ。 主役を引き立てるか邪魔するか微妙な存在だ。
終わり頃に見に来てくださって
「やっぱり入れないと気がすまないだろうと解ってたよ」
笑うより仕方がない。
今回も的確なアドバイスと手直しをして戴いて凄く勉強になった。
次回はお休みだからじっくりまた眺めて考えよう。

天気予報で雲行きが怪しそうなので昼食を断念して真っすぐ帰ったが強風で電車はノロノロ運転、ダイヤも乱れている。
乗り換えの歩道はよろめきながら帽子を押さえて何とか歩く状態。
マンションのベランダから何か落下して迷惑かけてないかしらと心配になった。
漸く帰り着いて恐る恐るベランダを点検したが小さな植木鉢も物入れも皆無事でホッとする。

出掛ける前に天気予報は必ず見るけれど雨の心配ばかりしていたな。
さあ 明日は退院後続いている二ヶ月ごとの検診で朝が早い。

何となく多忙な日が続いているが今日から弥生、春だ。
新しい気持ちで前向きな日々を過ごすように努力しよう。

二ヶ月検診に2013/03/02

樹の根元にひっそりと
二ヶ月ぶりの検診を受けに朝早く出掛けた。
独りで行くのも2度目だからバス停でちょっと迷っただけで無事に着いた。 
9時15分の予約時刻より随分早く着いたのに待合室は満員だ。
予想していたから持参の先日買ったばかりの文庫本を讀む。
「新島襄の青春」 福本武久 ちくま文庫
待望の男子出産に祖父、父の喜びようから始まって幼い日々のことから裕筆の家系で学問に励みやがて蘭学を、更に米国に行きたいと考えるまでの経過。 お写真で馴染みの傷の由来も初めて知った。
憧れて行った学校なのに設立されてからのことしか知らなかったな。
寮の夜の集会ではご存命の時のことを知る長老の方が想い出話をしてくださったのに、
「あっ そろそろ涙が・・・」
感極まって大粒の涙がぽろりと落とされるのを先輩に聞いていたから、でもその涙はジーンと心に響いた。
肝心のお話は覚えていない。

横道にそれたが半分くらい讀んだ所で名前を呼ばれた。
二ヶ月前の血液検査の結果を伺うと変わりなくて深刻な問題もないとのことだった。
「トレーニングやウオーキングは大丈夫ですか?」
「いいと思いますよ。 激しいことはしないでしょ」
「ええ 勿論、無理です」
食事に関しては先生は慎重だ。
脂肪は制限してますが甘い方には弱くってと言うと
「むしろ甘いモノの方が害があると思いますよ。ことに夕食後は」
うーん 今日から控えよう。 量の問題だと思う。

お昼前に総て終ったので帰りに新しく開店した眼鏡店に寄った。
補聴器の宣伝もしていたから話を聞きたいと軽い気持ちだったが応対してくださった方が親切で三種類くらいの聴力検査と製品の説明に時間をかけてくださった。
手元で音量の切り替えが出来たり、携帯代わりに使える部品とか、随分進歩していて価格も抑えられている。
半分くらい買う方に気持ちが動いている。
まだ無くても良い段階だけれど早めに慣れた方がという説も解るので前向きに考えてみよう。
一昔前と違って魅力的なデザインと内容に成りつつ有るなと感じた。

充実した一日だった。
仕上げに久しぶりの友との長電話で思いっきりお喋りを楽しませて貰って感謝。

三月三日2013/03/03

木目込み(きめこみ)の雛人形
三月三日は思い入れの有る日だ。
ハンドル名の「みみ」は卯年から来てるのだけど三月三日もミミの忘れ難い思い入れがある。
そのうちに海が好きで今の漢字を当てるようになったのだが・・・。

添付写真のお雛様は30年位前に創作人形の展覧会で戴いたのに箱を紛失したらしく作者名が判らない。
この世界では有名な方と伺った。
久しぶりに飾って品のいいお顔だなぁと沁みじみ眺める。
人形は古いほど風格が滲み出てくるが人間はなかなかそうはいかないと今日痛感することが有った。

事の起こりは10年近く使っていた珈琲メーカーの具合が悪くなって家人に相談したら
「もう買い換えた方がいいよ」
無印製品を買いに行って丁度手頃なのを見つけたが取り寄せで三日ほどかかることになった。

折角街に出たのだからと馴染みの眼鏡屋さんに寄って
「焦点が合い難いし、読書用は見辛くて・・」
と相談した。
検眼してもらうと乱視が進んでいるらしい。
「今、室内用の良いレンズが出来て評判良いのですよ」
度を合わせてもらって確かめて気にいった。
補聴器よりこちらのほうを優先すべきだ。
取り敢えず室内用を誂えて屋外用はもう少し様子を見る事にする。

中近両用なので、今持っているフレームで大きさの合うのがないからこちらも新調だ。
室内用だから安いのでいいですよって捜してもらったがやっぱり気に入ったのがない。
いろいろ鏡の前で試してみながら、私の顔って人形のように年月とともに風格が出る事はないなとつくづく思い知った。
それでもヤッパリ洒落たもののほうに惹かれて少し張り込んでしまった。
一週間先に出来てくる。 
三月三日のチョットした贅沢だった。

早春の花々2013/03/04

早春を訪ねて
朝の片付けが終ると散歩に出掛けるのが日課に成った。
まだ一週間経ってないから何時まで続くか自信はない。
大気は結構冷たいが白梅が咲き始めているのが遠くから見えて嬉しかった。

マンサクの黄色い花も満開だ。
こちらの公園には一週間ぶりくらいだったが早春の気配が彼方此方に見られる。
自然の野山や里だったら土筆や蒲公英や小さな野生の花々が見れる時季なのだろう。
ちょっと昔の光景が懐かしく浮かんだ。

三月と言えば卒業式を思い出す。
経験したのは小学校の時の一回だけだ。
厳粛な雰囲気で折角の校長先生のお話も全然覚えていない。
「仰げば尊し〜」
薄情にも女学生に成る事の期待と喜びのほうが大きくて、あんなに毎日仲良く遊んだ友との別れに泣く事はなかった。
呑気にまた何時でも会って遊べるように思っていたのだ。

女学校は4年生から進学したから卒業はしていない。
一緒に進学した5人のために全員が友達の家に集まって送別会をしてくれた。
そろそろ物資が欠乏し配給制に成ったころでお米なども持ち寄ってくれたとず〜っと後になって聞いたのだが、広いお座敷で本格的な踊りや仕舞いを披露してくれたり、最後には花束を貰って全員の笑顔の記念写真が残っている。
戦災、震災、そして病気で亡くなった友も多いが今も心許せる温かいクラスメートとの交流に元気を貰う。

女専の卒業式は父の葬式の日だった。

三月にもいろいろの想い出がつまっている。
折に触れてゆっくり書き留めて置こう。 自分で読み返すために。

「女専」って?2013/03/05

漸く水仙が盛りに
昨日、卒業式の想い出を書いたあとで終戦を境に学制が変った事に気が付いた。

戦前は小学校 6年間 4年生から男女別のクラスになる。
それからの進路は
    「男子」           「女子」
   旧制中学校  5年間      女学校   5年間 
   旧制高等学校 3年間      女子専門学校 3年間
  (または専門学校 4年間)   (医専、薬専は4〜5年?間)
   大学   3年間      大学(私立のごく一部だけ)

中学生(男子)は4年終了時に上級学校の受験が出来たが、女学生にそれが認められたのは昭和19年、私が4年生のときだった。
それで駄目元と受験したら奇跡的に合格した。
化学は5年生の教科だったが、初歩的な問題で助かった。
国語は徒然草からでよく讀んでいたし運が良かった。
女学校では通信簿が無いのをいいことに遊ぶか本を讀んでいたから入学してから数学や物理には苦労したな。

一年早く入学出来て一番喜んだのは母で長く学校に行くと婚期が遅れることだけを心配していたようだ。
父も普通の結婚を望んでいたようで
「空気吸ってくるだけでいいから 3年間遊んできなさい」
本を愛した人だったから教養みたいなものを身につけて欲しかったのだろう。

学徒動員で工場に行くまでは新しい勉強が楽しく、工場での経験にも興味津々。
でも めくるめくような刺激に満ちた日々を送ったのは終戦後だった。
欧米の映画、演劇、歌舞伎にのめりこみ、それまで禁断だった本を読みあさった。
大学生とのいっしょの社研で議論を闘わせた。
学校の講義も楽しかったがあまりにしたいことが多くて勉強はあまりしなかった。
卒業する年から国立大学の門戸が女子にも開かれたが、父が重病で大学生だった兄に「行きたい」と言うと「自立してやっていくなら学費だけは何とかするよ」と言われて考えてしまった。
大学に行きたいだけで目的は定まっていない。
遊んでばかりで学力不足も自覚している。
父が亡くなった後の家計も考えて諦めた。

今思い返せばそれで良かった、後悔は無い。
男女共学が当たり前の今の社会に羨望は覚えるが、戦後、それまで押さえつけられていた価値観の転換、自由に、十代後半の若者は高揚した。
着た切り雀で薄汚れて飢えていたけれど希望に満ちた青春だったな。
今から考えると幼稚だったのだけど。

「女専」の説明をするつもりが横道にそれてしまった。