8月15日2012/08/15

日米開戦の年に描いた撫子
全国戦没者追悼式のテレビ中継は15分間だった。

67年に体験した私だがその日の記憶は修正されているようだと気が付いたのは、昨日古い書類を探していて同じ箱に入っていた日記を読み返した時だ。
母の影響で物心ついたときから教会に親しみ、神様の前では人間皆平等と信じ、欧米の童話やシャーリー・テンプルが身近だった。
新聞の一面に鬼畜米英と書かれていてもそうは思えなかった。
進学した学校もアメリカに縁の深い歴史が有った。

それなのに昭和20年八月十六日の日記には、
敗戦の口惜しさ、自分の不甲斐なさ、哀しみと反省の言葉が乱れていた。
一瞬にして日本人の誇りをとりさられた痛恨の涙。
大御心の有り難さに感泣した とも。
 今にみていろ
 働くんだ 勉強するのだ、
学校に提出する日記ではないから本当にそう思ったのだろう。
ひねくれた解釈をすれば18歳の女の子はそう思わなければ恥ずかしいと思ったかも。

前日の八月十五日の日記が書かれたページ3枚が切り取られている。
何を思い、書いたのかはもう知る由もない。
内心の葛藤は話す相手も無く、取り敢えず死の恐怖から逃れられてホッとしたのも真実だ。

67年経てそのときの心境を語り継ぐ事の難しさを思う。
字に残っていても幾つかの本心があっただろう。

正午、戦争で亡くなられた方々には瞑目してこの地球上から戦争が無くなりますようにと心から念じた。

添付した絵は女学生になって習い始めた頃のもの。
昔の日記が入っていた箱に十数枚が丸め込まれていていたのだ。
日米戦争の始まった年に描いた撫子の花を見て戦争中の大和撫子って言葉を思い出し懐かしかった。