12月8日2011/12/08

冬木立
12月8日が巡って来た。
真珠湾攻撃、日米開戦のあの日から70年が経つ。
あの日のことは一昨年のブログに書いた以上のことは覚えていない。
ただラジオを聞いては高揚しながらも不安も渦巻いていた。
親の庇護の元にいてその後も戦災に直接遇わなかった私にあの戦争の悲惨さを語る資格は無いかも知れない。

去年の今日は病院のベッドでブログどころではなかった。
一昨年のを開いて懐かしかったので大部分を付記する。


 ===2009.12.8のブログより===
 太平洋戦争始まる。
女学校2年生になっていた私は朝2階から降りた途端にお茶の間のラジオから上ずったアナウンサーの声が飛び込んだ。
米国と戦闘状態に入った、真珠湾を攻撃して何隻もの軍艦を撃沈した事を正確な言葉は忘れたが何度も繰り返し、その間に軍歌が流れた。
父は複雑な表情で「まさかなあ この間ゴルフの仲間と今年中に日米開戦有るかを賭けて、無いと思ったから有るほうにしたのだが・・・」と不謹慎なことを言った。 先の事を考えての不安を隠していたのではないか。
一番亢奮していたのは中学5年生の兄だった。ラジオの新しいニュースを聞き逃すまいと二階の自室との間を何度も往復していた。 3年後学徒出陣することになるとは予想してなかっただろう。

華々しい戦果と勇ましい軍歌に何となく高揚した気分で登校した。 教室ではグループごとに集まってその話しで持ち切りだった。  私は親友と二人、校舎の裏庭の芝生に座って柔らかな日射しを浴びながら今朝聞いたラジオの内容を思い返していた。 ずっーっと黙っていた彼女がポツンと「朝から軍歌ばっかり 変なの」と呟いた。 いつもにこにこして穏やかな彼女の言葉に驚いた。
何も解らず上ずっていた私の気分もその一言で現実に引き戻され、これからどうなって行くのだろうと微かな不安が生まれた。
彼女の父親は祖父を継いで商社マンだったが学究肌の方で世界の事情にも通じていらしたようだ。 そういう雰囲気が彼女の独り言にでたのだろう。
女学校2年生に深い事が解る訳もなく悲惨な戦争の暗闇の始まった昭和16年12月8日だった。
   =========================

70年経った今も今日は忘れられない特別な日だ。

手紙雑感2011/12/09

モミジバフウの紅葉と実
伸ばし伸ばしにしていた手紙を今日やっと書いた。
便箋にしたためるのは年に1〜2回くらいしかない。
筆はムリでもせめて万年筆でと思ったが長いこと使ってないからスムーズにインクが出て来なくて言い訳のように一番上等のボールペンを使った。

20年あまりワープロとパソコン入力で楽をして来た結果、生来の悪筆が更に酷くなっていて恥ずかしい。
それにもまして漢字の忘れようは甚だしく辞書を引いてはルーペで確かめる始末だ。(電子辞書を使うのを忘れていた)
旧漢字が必要になって夫が中学生の時使っていた大きな漢字字典まで持ち出した。
たった2枚の便箋を投函出来るようにするまでに2時間近くかかって何だか情けなくなる。

最近は物忘れ防止に雑記帳にその日の予定などをメモしているが他人には(時には自分でも)讀めない字だ。
時間を惜しまないでハッキリ楷書で書く習慣をつけよう。
難しい漢字は讀めるほうだと少し自信があるがこうまで書けなくなっているとは。

小さな温もり2011/12/10

楓
昨日の午後から晴れた青空が今朝も続いていて久しぶりに厚手のセーターなどの洗濯物を干してスッキリする。
こんな日は歩いて置かなくてはとカメラだけポケットに入れて出掛けた。
この辺りもやっと楓が真っ赤になってきているので何時かスケッチした小さな渓谷のほとりの何本かの楓を訪ねることに。
脇道にそれた奥の坂道を少し登った所なのだが粘土質の土が湿っていて滑りそうで怖い。
以前は気にもしていなかったのに・・・
それでも向こうに見える緋色の塊に惹かれて用心しながら登った。
傍らを苔むした石の間を水が淀みながらも流れている。
足場が悪くて良い写真は撮れなかったが気分だけは最高だった。

登りよりも降りるほうが難しい。
少しの草を頼りに一歩ずつ足場を選びながら進んだが最後の所で止まってしまった。
また遣ってしまった。
用心深い性格なのに後のことを考えずに突き進んで後悔することも多い。
暫し考え込んでいたらこれから集合するらしい野球のユニホームを着た少年達が三々五々通りかかった。
私が通り過ぎるのを待っている。
思わず
「ちょっと手を握ってくれる?」
と声をかけると ひとりの幼顔の残る少年が手を差し伸べてくれた。
無事に降りれて
「サンキュ〜 有り難う」 とお礼を言った。
黙って皆と一緒にさっと駆けて行ってしまったが手のほのかな温もりが嬉しかった。

絵を描くこと2011/12/12

小さな公園にて
絵の教室に行くのを止めて一年以上になる。
2時間近くかかる所だからまだ当分は無理だろう。
アトリエで先生が用意して下さったモチーフやモデルさんに夢中になって筆を走らせた日々が遠い昔のことに思えて懐かしい。

絵を描くのに上手下手は関係ない、感じたままを素直に描けばイイと思って来た。
それなら独りで何時でも気の向くままに没頭出来るはず。
海のそばで富士山を眺めていた頃は閑を見つけてはスケッチを楽しんでいた。
技術は未熟だが今見てもその時にしか描けない心情が伝わってくる。

今は時間を持て余しているのに心が躍らない。
一歩踏み出せない自分が歯がゆくて今日は簡単な水彩絵の具と水筆をバッグに入れ小さな無人の児童公園のベンチに腰掛けて30分ほどスケッチをした。
初心に還った気持ちだった。細々でも続けられれば楽しくなってくるだろう。 そうなりたいな。
贅沢な悩みだなと苦笑する。

クリスマスの月2011/12/13

ミニクリスマス飾り
ホームセンターに電池を買いに行ったら
 ”き〜よし このよる〜”
が流れていた。
一時期の様な派手さはないがクリスマスグッズも並んでいる。
マゴが成人してからはクリスマスプレゼントを選んだりツリーを飾る楽しみからも遠ざかったな。

幼い時に母に連れられて行った教会の厳粛な礼拝は子ども心に好きだった。
日曜学校では皆で降誕の場を演じ天使に扮したのを思い出す。
台詞は忘れたけれど短い一言だけだった。
長老がサンタさんに扮して文房具などのプレゼントを配って下さった。
戦争でそろそろ食糧事情が悪くなった頃には最後に手作りの薄いお汁粉を振る舞われた。 クリスマスケーキなんて無かった時代だ。

大きくなるにつれて教会から遠ざかったけれど「きょし このよる」の聖歌を耳にするとあの質素で厳粛だったクリスマスの光景が蘇る。

昨日、思い立って飾り棚の上に小さなクリスマスの飾りをした。
数年前にマゴ娘からプレゼントされたサンタさんと天使にカワイイものを総動員して子どもに還ったようだ。