迎春2011/01/02

葉山から望む富士山
暮れぎりぎりに退院の許可を戴く。
まだ心もとなくて29日の夕食をガランとした食堂で
独りで夜景を見ながら食べて、病室に戻ると家人が
荷物を纏めて待っていた。
挨拶もそこそこにあわただしく車で帰宅、この前の経験で
懲りているので暫くは息子の家で世話になることになった。

 「無事に生還できたなぁ」 って洩らすと
 「大げさですよ。 深刻な病気じゃないんだから」
うん 確かにそうだけど私にとって初めての膵炎はショックだった。

でも 入院してみて大変な病気を抱えた方々とお話しする機会が
有って智識だけでは判らない感慨がわいた。
その方々の明るさにどれだけ勇気を戴いたことだろう。
先生、看護師さん、職員の皆さまの明るい親切も身に沁みた。
この歳になって新しい勉強をさせて貰った入院生活ではありました。

元旦に家族が集まった時(ホント 楽しい1日でした)に、
マンションからパソコンを持ってきてセッティングして貰って
やっとブログが書けるようになった。

優しいお見舞いのコメントをいっぱい戴いてて涙が出ちゃいました。
ほんとうに有難うございます。
当分はブログ書くだけでお礼のレス書けなくてごめんなさい。

あらためて
 新年あけましておめでとうございます
    今年が佳い年になりますように!

                 兎年の美海より

入院雑記2011/01/03

油彩(10号)
再入院して2週間は絶食で毎日6~8本の点滴で過ごした。
膵炎はともかく絶食が最良の治療法で薬剤と栄養を血管に直接注入するわけだ。
幸い薬がよく効いてナントカの数値が劇的に下がった。
後で聞くと入院した時は凄い数値だったとか。 幸運だった!
栄養剤も2リットルくらい点滴するから空腹感はないが朝の9時過ぎから夕方7時頃まで拘束されるのには参った。
がそれより大変だったのは私の血管が非常に細くて点滴の針が入らない。  看護師さんには本当に気の毒だった。

やっと血液検査で数値が平常に戻って流動食が出て、2日目に3分粥になった途端に点滴は中止になってホッとした。
両手が自由に使えるようになって歩き回れるようになったらどんなに良いだろうと思っていたのに人間ってワガママなもので、目的もなくベッドで1日過ごし眠れない夜がくる日々は又違った辛さがあった。

もっともっと辛い思いをしている方が多いのに贅沢だとつくづく考えさせられもした。
私の場合はじれったかったけれど確実に少しづつ良いほうに向かっているのが感じられ、数日後には全粥になって5階の食堂まで行けるようになったし、本を読む意欲も湧いてきた。

食堂の書棚から村上春樹の「ノルウェイの森」を借りて3日で読む。
次は筒井康隆著「敵」、ピーター・ラヴゼイ「最後の刑事」など。
本が読めるようになったら家族から今人気のある日本史、世界史の本や数独とナンクロの雑誌まで差し入れしてくれてまったく退屈しなくなった。   夜もよく眠れるようになった。
まったく現金なものだ。

正月休みの時期でなかったらもう少し入院していたほうが心丈夫だったのだが退院は矢張り嬉しい。
それで食事制限も無理しないことも今は凄く気を付けて我儘させてもらっている。  心の中で家族に感謝しながら。

皆さまの温かいコメントに元気戴いています!

箱根の想い出2011/01/04

箱根のスケッチ
正月のテレビの一番の楽しみは箱根駅伝だ。
これが大好きな孫娘と二人で燃えた。
もっとも今年の私は途中でベッドに休息に行ったけれど、肝心のところはバッチリ見ることが出来た。
往路のラストも、18年ぶりの早稲田の優勝にも感激して若いエネルギーを貰った感じで元気が出たな。

箱根の山道や芦ノ湖を見て昔のことを思い出した。
夫が定年になってから移り住んだ海辺の家から箱根は丁度良いドライブコースで、朝思い立って出かけたっけ。
魔法瓶に珈琲を詰めて、途中のコンビニでお弁当を買って、芦ノ湖を俯瞰できる山道に車を停めて食事を楽しんだ。
そんな時のスケッチが出てきたので添付する。 夫も一緒に描いていた記憶がある。

芦ノ湖の湖畔に駐車してレストランにもよく行った。
春夏秋冬それぞれの趣の箱根があった。

書棚の上の夫の笑顔の写真に目をやって
「あの頃 楽しかったね」
と心の中で呟いた。

初散歩2011/01/05

初散歩の道端で
犬の散歩に付き合って退院以来初めて家の近くを歩いた。
大気は冷たいが新鮮で心地よい。
愛犬は17歳になって脚も心臓も少し悪くて私は同じくらいの年齢の親近感を持って
「うん 大変だよねえ」
と慰めるけれど彼はどう思っているかな。

ともかくスローペースで近くを回るだけだから今の私には都合が良い。
すっかり真冬の景色になった樹々を季節を飛び越えた感覚で眺めたり、住宅の垣根沿いの植え込みの花々を鑑賞しながらゆっくり歩いた。
可愛いお正月飾りや栗鼠を見付けて嬉しくて思わずパチリ。

ちょっと自信がついたから明日から少しづつ行動範囲を広げられればと思っている。


 #コメントにまだレスできないでごめんなさい。
  嬉しく読ませて戴いて元気いただいてます。

小学6年生のころの想い出2011/01/06

片目の雪だるま
昭和15年、私は女学校の入学試験を間近に控えた小学6年生だった。
普通なら受験勉強に必死の時期だ。
姉も兄も6年生になると小学校の先生や師範学校の学生さんに家庭教師をお願いしていたのを覚えている。
私の番になったら、親も慣れて大丈夫と考えたらしく家庭教師の話はでなかった。 
決して姉や兄より成績が良かった訳ではない。

その頃は勉強塾は無かったから受験する子には学校で特別授業があって、進学しない生徒はその間は運動場でドッジボールなどで遊んでいるようにに先生から言われていた。
女学校に行かずに高等科(2年間)に進む子がクラスの3分の1くらい居たろうか。
そういうことに疎かった私は一緒に仲良く遊んでいた友達が女学校に行けない現実に戸惑い哀しかった。
世の中って不公平なものと感じた初めての経験だったと思う。

そうまでして受験準備をしていたある日、突然受験の内容は面接と内申のみという通達があって、学校では面接の練習に変更された。
戸の開け方とか礼の仕方、言葉遣いとかとか。
ラッキーだったな。 6年生の最後を思いっきり遊んだ。 進学しない友達とも一緒に。
小学6年生の最後の3学期の日々は楽しかった思いだけが残っているが卒業して別れ別れになって以来、同じ女学校に入った友達以外は再会することも消息を聞く機会もないまま70年が経った。
あの時の友達はどんな人生を送ったのだろう。 勉強したくても進学できない子がいたことが忘れられない。