新しい画材のパンパステルを2010/10/01

ニケ(パステル)
アトリエの授業で初めてパンパステルという新しい画材を使った。
「好きなように試してみ〜」
と 説明なしで恐る恐るモデルさんを見ながら塗りたくった。

丸いケースに入った固形お白粉そっくりで、それをお化粧に使うのと同じようなスポンジに付けて画紙に擦り付ける。
まざしくメイクしてる感じだ。
パステルより少しだけ油脂分が多いせいか良く伸びて、薄い色を重ねて行くと微妙な色調になる。
でも なかなか思うように表現できなくて普通のパステルを使いたくなるのを 我慢 ガマン

半分時間が過ぎた頃から先生が順番に回って見てくださった。
先生も使い始めて間がなく試してみてる最中だと仰るがチョット手を加えて下さっただけでスッカリ変わる。
アア〜 って思わず溜め息がでるほど素敵な感じだ。

少し 掴めて来た感じがした。
来週は着衣のモデルさんだそうだから、添付できるかも。
帰りに画材屋さんに寄って2色買い足し、ついでに変形のスポンジも求めた。
パンパステルの授業は4回ある。 使いこなせる様になるかしら。 これでスケッチを楽しめるようになりたい。

添付の「ニケ」は以前に普通のパステルで描いたものです。
これをパンパステルで描くとどういう感じに仕上がるかと想像しました。

カメラの想い出2010/10/02

窓ガラスに映る撮影姿
部屋を片付けていて古いカメラがでてきた。
一個はデジタルカメラを買う前の最後のもの。
オリンパスのコンパクトなタイプだ。 開けるとフイルムが装填されたままだけど 何か写っているのかしら。
夫の定年後、二人で気ままに旅行する時は必ずこのカメラとビデオカメラを持って歩いたな と懐かしい。
操作方法はすっかり忘れている。

もう一つはソニーのマビカ。
初めて買ったデジタルカメラ、今持ってみると重い。
当時でも「お弁当箱」と言われたくらいでバッテリーをいれると1kgはある感じだ。
これを散歩する時も持ち歩いて撮るのが楽しみだったな。
3.5インチのフロッピーに記録するのですぐにパソコンで見たり加工出来て便利だった。接写も1センチ未満、光学ズーム10倍。
ただ画素数は40万画素切っていたのは、今では考えられない数値だ。
とても愛着があって、その後新しいのを買っても併用していて修理にも何度か出したが、数年すると凄い修理価格の見積もりで とうとう断念した。 諦めさせたかったのかなと勘ぐった。
返って来たカメラに入っていたフロッピーを見ると修理の係の方や会社の仕事場が写っているのが一枚入っていて親しみが湧いて笑ってしまった。 テストしてたのでしょうね。
3,5インチのフロッピーがサンタクロースの袋いっぱいほど溜まったのを、ある程度CDに保管してから引っ越しの時に大部分を廃棄した。

マビカを買ったのは20年近く前と思っていた。
今調べてみたら1997年発売らしいから、13年くらいしか経ってない。 この時間感覚のズレに驚いた。
私のなかではセピア色の昔懐かしい想い出になってしまっている。

添付したCGは、まだデジタルカメラが普及していなかった頃、散歩途中で見かけた新築の家の窓がミラーのようで カメラで撮ってる自分が写ってるところを描いたもの。
当時見た方からカメラに目を当ててないのはミステリアスとコメント戴いたのも懐かしい。カメラの液晶画面が珍しかった頃の話です。

昭和25年の10月2010/10/03

無題
昭和25年の今頃は忙しかったなと思い出す。
7月にお見合いして、結婚が決まって周囲はほっとした。
父が3年前に亡くなり、兄は前年に結婚していて私のことだけが心配の種だったらしく父母の友人からお見合いの話を幾つも戴いたけれど結婚する気になれなかった。 職場にも独身男性は多くて友達付き合いはしていても恋愛感情は抱いたことがない。
オクテだったのだろう。

あの頃は女性の結婚適齢期は23歳が常識で、仕事一筋に生きるほどの情熱もなかった私は、家出願望も手伝ってそろそろ結婚したくなっていた。 後の夫とお見合いした時、初めてこの人と結婚したいと真剣に思った。 幸運だったと、あの時尽力して下さった母の友人に感謝する。

婚約して2回目のデートは祇園祭の宵山だった。
雑踏の中を歩き回って帰ったら義母が嬉しそうに迎えてくださって、あれこれ話したら
「まあ お茶も飲まなかったの。 ほんとに気が利かないんだから」
当時は安月給だったからそんな余裕なかったのだと思う。
歩いているだけで楽しかった。
無論 付き合っている間にレストランなどで食事した覚えはない。 河原でホタルを見たりしていた。

或る日、母が唐突に提案した。
「比叡山に遊びに行ったら? 宿坊で泊まってらっしゃいよ」
宿坊は安いし比叡山からの眺めは抜群だ。
義母は少し驚いていたが許してくれて二人で登った。
杉木立が美しく、脇道を探検していると叢に大きな蛇がトグロを巻いていたのを夢の中の出来事のように目に浮かぶ。泊まっても彼は紳士的だった。
楽しいデートだった。

11月4日の式に向けて10月はすることがいっぱい有った。
母と一緒に丸太町通りの家具屋さんで洋服ダンスや和箪笥、鏡台などを買い、裁縫道具入れの小箪笥は私が設計したのを手作りして貰った。 金具を使ってなくて6段の小引き出しもキチッと収まって50年使ってみて職人芸の素晴らしさが判った。
当時は一般に貧しくてそういう需要が少なかったから喜んで作ったくれたのだと思う。
私は生地を買って来て洋服作りに忙しかった。 プリーツスカートやボレロが流行っていた。 スーツは母の友人に仕立ててもらった。

姉が結婚するときは、呉服屋さんが毎日のように出入りしていて、父が珍しく
「そんなに贅沢していいのか。次の子もいるのに」
と小声で言ったのを聞いてしまった。 母はきつい調子で
「これくらいはしなくては貴方の体面がたもてません」
父は黙ってしまって苦笑していた。

私の時は到底そんな支度の出来る世の中でもなかったし、父がいなくなったのに、受け継いだ兄が工面してくれたのだろう。

勤務先を辞めたのも今頃だったな。
課長さんが心配して下さって、次の就職先を紹介してもいいよと言ってくださったのが印象に残っている。にべもなくお断りしたがホント考えが甘かったと後で思い知った。

美容院に貸衣装や当日の打ち合わせで何度も足を運ぶ。
何もかも自分たちで考え、頼んで回る毎日だった。
曲がりなりにも結婚式を挙げられたのは、あの時代には恵まれたことだった。

2010/10/04

黄色い部屋
昔の小・中学校での秋の一大イベントは何と言っても運動会だ。
この時期、毎日練習して当日は町中あげてのお祭り気分で盛り上がった。 このことは去年の今日書いたから今回は中学校での出来事を思い出すままに。

当時中学校は5年制だった。 従兄弟が通っている中学校の運動会に母と兄と観に行ったのは幾つの時だったろう。
兄はまだ中学生になってなかったように思う。
女子は女学校に行ったから、中学は無論男性ばかりで雰囲気が全然違う。 総行進では部活ごとに歩いてて柔道着の上級生など大きな体躯で圧巻だった。
騎馬戦も棒倒しも迫力満点で面白かった。

軍事教練もやっていて 銃をかまえて匍匐しながら撃ち合う演習には、兄も私も観客席のベンチの上に立って夢中で見ていた。
その最中に 横に座っていた母が兄の名前を呼び「どうしたの?」と聞いたので兄の顔を見るとコメカミから赤い筋が垂れている。 血だ。
兄はきょとんとしていた。 何も気付かなかったらしい。
その後どうしたのか記憶にないが、ともかく父に連絡して念のため父の勤めている病院でレントゲンを撮った。
私は家に帰っていたから後のことは夜帰宅した父から聞いた話だ。
実弾ではなかったと今想像するが、弾がコメカミから入って頭蓋骨に当たっていたそうだ。 一歩手前で幸運だった。
その後の兄の様子は全然覚えていない。 中学の校長先生とは親しかったせいか事故が公に成ることはなかった。
第一軽い怪我で済んだのだから。
あとで 父が「医者になっていて良かった。念のためすぐにレントゲンで調べられたから」と述懐していたのを聞いている。

少し大きくなってから当時のことを思い返して、人間の運命なんて解らない、兄の顔の向きが少し違ったら目に当たっていたかも、 弾道が少しずれていたら私に当たったかも。
自分が知らないだけで 運、不運の狭間を通り抜けているんだな。
大きな運が傍らを擦り抜けて行ったり、死の危険から逃れていたり、そういうことを知らないから暢気に生きていけるのかも。
この小さな事件から学んだことは大きかった。

この季節、運動会に関連した古い想い出の一つだ。

写真雑感2010/10/05

馬頭の石膏素描
朝からアルバムに入れていない古い写真を仕分けしていたら疲れた。 もう関係なくなったのは思い切って処分する方へ束ねたが全部に目を通すだけでも一苦労、そこに何かしらの感情が入るから精神的にも疲れる。
以前にちゃんとアルバムに整理したのは書棚の上へ2段に重ねてある。 押し入れには親類縁者や知人の写真がいっぱいだ。 長男の宿命だろう。 義母によく聞いて名前くらいは記して置くべきだったと後悔する。 お葬式の写真なんて大人数が並んでいるが誰のお葬式だったのだろう?
それでも風俗を見ているとその時代が垣間見えるし、私が処分は出来ない。

昭和初期には家庭で写真を撮る家は少なくて、年に一回くらい写真館に行って家族写真を撮った。 学校では毎年先生を真ん中にしてクラスの集合写真を撮って、懐かしい情景を思い出すよすがになっている。

私が小学4〜5年の頃本家の従兄弟が我が家から写真学校に通っていた。 彼の父が早く亡くなって本家を継ぐのだが身体が弱くて進学出来ず、父が考えた末に写真の道を選ばせたのだ。
従兄弟も喜んで通い、我々の写真も撮ってくれたからその頃にしては珍しくスナップ写真が残っている。
従兄弟は卒業後に山奥の家の敷地にスタジオを建てて村の結婚式などにも出かけ、結婚して立派に家を守り立てていた。

戦後の学生時代もカメラを使えるのはクラスに一人くらいで写真館に友達と連れ立って撮ったのが数枚あるだけだ。

結婚してから兄からカメラを貰って、我が家の家族写真も増えて行ったが、カラーになったのは東京オリンピックの前くらいだった様な気がする。
その前は写真用のカラーインクで私が彩色していた。

爆発的に我が家の写真が増えたのは簡単に撮れるコンパクトなカメラが出回って私が撮るようになってからだ。
「バカチョン」が差別用語と指弾されたころだ。
デジタルカメラになってからはパソコンに収納しておけばいい。
今の若い世代は携帯で撮ってメールで送るくらいしか興味持たない人が多い。 マニヤは別だが。

あ〜あ 撮りまくった期間の膨大な写真をどうしようかな。
本当は 未だに夫の写真を見るのが懐かしいより辛くて開けたくないアルバムも多いのだ。