昭和20年の二学期2010/09/06

古い赤煉瓦の疎水
昭和20年の敗戦後、マッカーサーがコーンパイプをくわえながら厚木の飛行場に降り立ったのは8月30日とある。
学校が夏休みも終わって授業を再開したのは何日か忘れたが9月の初めに違いない。
ぼろぼろの作業着とも工場とも縁が無くなって、制服を着て教室に入ったときの嬉しさ、黒板や机がやたらと懐かしかった。
学校ってこんなに良い所だったのだ。
窮乏のどん底でお弁当なんて皆酷いものだったけど、戦災を免れた古くて暗い校舎の中をノートと汚いペンとインク瓶をぶらさげて教室を移動するとき、平和が身に沁みる。
先生方の講義も熱が感じられ教わる方も真剣、戦時中のいいろいろな規制から解放された授業は新鮮だった。

戦争で酷い苦しみを味わったのは敗戦までの2年間であり、学徒動員で学校を離れたのは8ヶ月間に満たない。
今ならたった之だけの期間と思うのだが当時は それがどれだけ長く絶望的に感じられた事か。
ともかく 敗戦の日を境に当時の若者はどん欲に知識を吸収し、新しい文化を楽しんで、粗末な衣服も飢えも苦にならなかった。

過去は美化する恐れがあるが少なくとも新鮮な刺激に満ちた学生生活であったのは間違いない。 若くて責任のない立場だったからとは思う。

パーマ今昔2010/09/07

エンゼルと静物
終戦を境に若者文化は一変した。
昭和18年頃からどこからの指令か知らないが女学生の髪型まで指定された。 
あの頃の女学生は一年生の時は全員、前髪を切り揃えた所謂オカッパだった。
2年生頃からそろそろ前髪を上げて横分けにし出す。 上級生になるほどに髪を長くしたが肩までかかる事はなかった。
長くして括るとか三つ編みにするのは昔風でダサイと思い込んでいた。
それが お上からの指令では後ろで二つに分けて括れという。
凄く抵抗感が有って先生の眼の届かない所では皆黒いゴム紐をはずしていたものだ。

女専の合格が判った翌日、私は髪を短くカットして登校したが先生は何も仰らなかった。 子供げたことをしたものだと恥ずかしい。
女専は自由な学校だったが学徒動員が始まった頃から髪を括る事を強制されたが誰も守らない。 先生も見て見ぬふりだった。
こんなことに皆がそこまで抵抗した気持ちは今の人には判らないと思う。

戦後は一変してパーマをかけてもいいとなった。
物珍しさに早速、しもた屋の小さな美容院に行って掛けてもらった。 パーマの技術持っている人は少なく、美容師は威張っていてこちらは叱られながらカーラーを差し出す手伝いをしたものだ。
ホットパーマでお釜状のものを被るのだがその暑かった事!
ともかくチリヂリになった姿の写真が残っている。
同室の友達も私のを見て掛けに行ったが、夜鏡を見ながら涙ぐんでいた。 予想外で情けなくなったらしい。
自由になったらなったで難しいものだ。 お洒落下手だった。

パーマで思い出すのは、昭和10年頃の母の仲良しグループの会話、
「パーマネントかけたいけれど高いわよね」
「せめて 5円になったらかけたいわ」
「そうよねぇ」
5円は記憶違いかも知れないが、長い髪を束ねて後ろに髷を作っていた頃、パーマの髪型は憧れだったようだ。
暫くして3人ともパーマをかけ世の中にも普及してきたが、戦争に突入後は非国民扱いになる。

今の若い世代のお洒落を見ていると、ほんとうに良い時代だなと思う。 こんなささやかな事にまで國から強制されるのはイヤだ。良識とは別の話だ。

昭和初期の服装(男性)2010/09/08

夏の海
昭和初期の父母の年代の服装を思い出してみた。

父は病院に勤める医師だったが、夏の通勤には白い麻の背広に白い靴だった。
私の記憶では革靴そっくりなのだが厚手の木綿か麻が素材で、家人が毎日真っ白のクリームを塗りたくっていた。
それに パナマ帽を被って、大きな日傘を持ち歩いていた。
男性で日傘をさすのは当時でも珍しかったが合理的な父は夏はこれが一番だと私に言い聞かしていた。
ゴルフ場でみかける?ような外側がアイボリーがかった白で、内側は薄いグリーンで洒落てはいた。

夕刻帰宅すると白地に絣模様の着物に黒い絞りの兵児帯を締める。
浜などに散歩するときは麦わらのカンカン帽子をかぶって、ステッキを振り回していた。 黒い鼻緒の大きな下駄を履いて。
夏目漱石を敬愛していたから服装も影響受けていたのかも知れない。

真夏になると町では老齢にさしかかった男性の甚平姿をよくみかけたが、あれは涼しそうだった。
中には麻の下着にステテコだけなんて男性も平気で歩いていたな。
その上から茶色のメリヤスの分厚い腹巻きをつけていた。
下駄じゃなくって草履だったように思う。

現在の様なTシャツやジーンズなどの文化はまだ皆無だった。
気持ちは今もあまり変わらない面も多いのに、服装は随分変わったなと改めて思う。

太平洋戦争に突入してからは カーキー色の国民服、戦闘帽、ゲートル着用などと締め付けがキツくなり町を行き交う人の姿は様変わりして重苦しい雰囲気になっていった。

昭和初期の服装(女性)2010/09/09

昭和初期の髪型とは違います。
昭和初期の結婚した女性は着物姿が普通だった。
卒業式などに洋装の方がいると凄く目立って子ども達もアメリカ映画の女優さんみたいと思うくらい珍しかった。

こどもの洋服は当たり前だったのに、女学校を卒業して所謂花嫁修行が始まると、お茶やお花などに着物は欠かせない。 改まった外出も着物だ。
母の世代と違うのは普段着やチョットした外出には洋服が定着して来た事だろうか。

着物は手間がかかる。着たあとは襟や袖口などをベンジンで汚れを落とし、何年かすると専門の洗い張りやさんに頼んだあと仕立屋さんに頼んでいた。普段着は衣替えの季節には ほどいて洗い一枚の布に縫い合わせて両端を挟んで干す。裏庭は線状の布が何本も翻がえって壮観だった。 その布に伸子張りといって両端に針が付いたのを20センチ間隔位で突き刺し布をピントさせるのだ。
家事は限りなく有った。 お手伝いさんを頼むのは仕方なくという面も有る。

その頃でも真夏は特別で、母の世代も家ではアッパッパと称する簡易服を着ていた。 クーラのない時代だもの帯はキツい。
木綿の細かい花柄などで半袖のシンプルなものだったが締め付ける所がなく涼しそうだった。 あまりお洒落とは言い難かったが。

姉より少し上の世代から徐々に洋装が主流になって私が成人した時には洋裁学院にも通い、着物はもう特別の時しか着る事は無くなり、美容院で着付けして貰う時代になった。

最近は電車の中などで初老の女性の着物姿を見かけると気品があって美しいと思う。

昭和初期の服装(男の子)2010/09/10

昭和初期の男の子
昭和初期の男の子は地味な服装だった。
小学校では3年までは男女同じ組だったから集合写真が残っている。
男子は殆どが黒い木綿の学童服だ。中学生の制服と違うのは詰め襟でなく普通の襟で金ボタンには校名が入ってなかった。
写真を撮るからということも有ったのかも知れない。
いま3年生の時の写真を見ると一人だけ白っぽい背広ふうのを着てる子が居るので思い出した。 アメリカから帰って来たばかりで彼だけはチョット派手な服装で目立っていた。 一度男の子達にからかわれてるのを見たがその後は同じ様な服装になった様な気がする。 彼の家に遊びに行くとハイカラなものが有って私は面白かったけれど。(余談)
男の子の普段着は半ズボンに白い開襟シャツで、冬にはトックリのセーターを、黒とか茶色とかで裾に横縞が入ってるくらいで、くすんでいた。

中学生になると学校によって制服が違うのは今も同じだが、兄の入学した中学校は柿色に近い色で目立った。 それに足にはカーキー色に近いゲートルを巻いて編み上げの革靴を履く。
入学した頃は毎朝悪戦苦闘していた。
我が家から中学に通っていた従兄弟は私立で緑っぽいカーキー色の制服でゲートルなどは着用しないで比較的自由だったようだ。

高校に入ると兄は家から離れたが休みに帰ってくると当時流行の弊衣破帽で黒いマントなどを引っ掛けていた。 けっこうお洒落だったのだろう。 汚くて母は洗濯しながらこぼしていたが。
高校三年生の時、学徒出陣で戦闘服を着る事になる。

私の小学校の同級生の男の子達は海軍や航空兵に憧れて親の反対を押し切って志願した。 無論お国の為という純粋な気持ちからだが、あの制服も魅力が有り女の子達にも人気があった。

敗戦をさかいにして男子の服装もガラリと変わる。