原爆投下の日から65年2010/08/06

献花
今年も8月6日がまた巡って来た。人類歴史上初めての原爆投下、あれから65年が経った。
毎年テレビの前で黙祷を捧げる。 8時15分だ。
あのニュースを聞いたときのこと、戦争が終わってから知った惨状と苦しみが迫ってきて息苦しい。
眼を開ければ参列している方々のお顔が暑い日射しのなかに見え、熱中症の心配をついしてしまう。
一瞬に現実に戻ってしまう自分に65年の歳月の長さを思った。

この日の夕方には疎開先の農村でも、
「広島に新型爆弾が落とされて全滅やて」 
とい噂があちこちで囁かれ村中に広がった。
新聞にどう報道されていたか記憶がないが、
朝日新聞「世相75年」には終戦後
「原子爆弾 ウラン原子核の分裂 最少量で火薬二萬噸に匹敵」という解説記事が載っている。
当時は、もうお先き真っ暗、政府にいかに鼓舞されても絶望感で皆が疲れきっていた。
母が親しくしていた知人のお父さんが縁者を気遣って何とか切符を手に入れて広島の町を捜し歩いたが徒労だったと聞いた。
数年後、原因不明の病で亡くなられたとき、周囲は原爆のせいだと思ったが、きっと被爆者の数には入ってないだのろう。

夫が定年になり、二人で旅行したなかに 広島も入っている。
私はどうしても平和記念公園にお参りしたくて渋る夫を説き伏せ早朝ホテルから歩いて行った。
初老の男性が独りだけでお参りしていた姿が印象的だった。

夫の思い出すのが辛い気持ちは解っていた。戦争中の成年と未成年、積極的に参加した男性と間接的だった女性の感覚の差は大きい。
今朝の式典の中継を見ながら、行って体感してて良かったと沁みじみ思った。 
哀しみがあの時の風景とともに身体の中を通り過ぎてゆく。

戦争末期の食糧事情2010/08/07

西瓜と玉蜀黍
暑くて外出する気にもなれず、さっきまで女学校の時のクラスメートと長電話した。今 ブログに戦時中の事を書いていることもあって昭和19年〜20年のころを聞いてみた。

「戦争有の事を書いてたら若い人から、その頃の食卓事情聞かれたんだけど 覚えてる?」
「確かお米の配給が一日2合4勺だったよね」
「だんだんお米の代わりに大豆粕や高粱(コーリャン)や薩摩芋になって終いにはに遅配遅配だったと思う」
「高粱混ぜたご飯って真っ赤だったでしょ」

住んでる所が生産地か消費地、つまり田舎か都会かによって食事情は全然違った。
都会でもお金持ちは闇で食料や衣服を入手していたし、時の権力と繋がった階層の食卓は豊かだったようだ。
インテリで中間層の市民の食卓は貧しかったと思う。
友達も電話で言ってたが、食事の事で不満を言うのは恥ずかしいと育てられて来たから、すいとんや蒸し芋だけの食事でも感謝しながら頂いた。 家庭菜園で採れたカボチャがすいとんのお汁に浮かんでいたらご馳走だったな。
芋づると里芋の茎(ずいき)もよく食卓にのぼった。
一番苦しかったのは昭和19年後半から終戦の日ころまでだ。

敗戦とともに闇はおおっぴらになり、お金さへ出せば闇市で何でも買えた。
進駐軍が来る前にと鮭缶などの配給がどっときたし、軍需会社は解体される前にと従業員にストックしてあった衣料などを配った。 どこまでの範囲に配られたかは知らない。

我が家は農村に疎開してからは都会よりはましな食卓だったと思う。 空襲で焼かれなかったから買い出しに行って食料と替える着物なども有った。戦争の犠牲による差がこんなところにもある。

あの頃はダイエットなんてしなくても皆ガリガリに痩せてたな。
如何に少ないお金でカロリーの高い食料を買うかということばかり考えていた。

昭和初期のお誕生会2010/08/08

花かご
戦中、戦前の話の続きにもうひとつ。
あの時代、お誕生日を祝う習慣があったかと若い方から尋ねられました。
我が家では昭和19年〜20年にはもうそんな余裕はなかったが、もしかして小さな子どもさんの家庭では少し特別のささやかなご馳走でお祝いしたかもしれない。 そうだったらいいなって願望です。

先日、クラスメートに聞いたら彼女7人姉弟で戦争が激しくなる前は毎月のようにお誕生日会があったと言ってた。
「好きな料理を作ってもらって何時もよりちょっとご馳走!
 友達4〜5人呼んで。 でもプレゼントはなかったわ」
私の記憶は小学校に入ってから、やっぱり友達を10人くらい招いて、お座敷に座卓と卓袱台を並べて、ちらし寿司を洋皿に盛ってって感じだった。
1年生の時は、母がひろすけの童話などを読んでくれたのに、縁側から飼い犬の親子が覗いてるのを見付けてみんなそっちに行ってしまい、私と大人しい男の子だけが母に悪いと思って最後まで座って話を聞いていた覚えが有る。
親からも友達からもプレゼントはなかった。カードも。

友達のお誕生日にもよく呼ばれた。
楽しかったがそんな時に招く子が限られてくる、「行っていい?」「うん いいよ」って帰り道に約束してもその子は来なかったり。きっと親に止められたのだろうなんて感じていた。

昭和17年が最後だったかな。 女学生になっていた。裕福な家庭の友達が母の手作りのお寿司と牡丹餅を喜んでくれたのは そろそろ物資の不足が感じられ始めていたからだろう。

あ バースデーケーキは無かったなあ。
それでも戦争末期には姉と昔の甘いお菓子を懐かしんだものだ。
戦前は親の誕生日は知っててもお祝いした記憶が無い。
祝ってもらうのは子どもだけだった。

長崎への想い2010/08/09

飛翔
歯科医院の予約があって、長崎原爆投下65年の記念式典はテレビで見られなかった。 一緒に黙祷も捧げられなかったのが侘しい。
キリスト教が一番早く広まった長崎がどうして原爆の2度目の目標になったのだろう? 捕虜収容所もあったのに。
当時の庶民に判る筈も無いが、もしかして我々の頭上で炸裂していたかも知れないと思うと代わりに被害に遭われた広島、長崎の方々に申し訳ない気持ちでいっぱいだ。

私にとって九州は遠い地だ。 姉は父の勤務先の関係で熊本で生まれているが私自身は一度も九州の地を踏んだ事が無い。
特に歴史の数々の舞台になった長崎、異国情緒の街をこの眼で見たかった。 浦上天主堂、グラバー邸は写真でみるだけ、港も俯瞰してみたかった。
被爆十周年の時に建てられた北村西望の平和祈念像は実際に見上げるとどういう感じなのかしら。
彼の聖観世音菩薩像も写真で観るだけだが力強い! 観たいと思う。
日本国内だもの何時でも行けると思っているうちに相棒の夫はいなくなり体力の自信も無くなった。
行っていれば今日の式典に寄せる想いももっと身近に感じられただろう。

iPhoneで絵を描く2010/08/10

iPhoneで描く
今日は iPhoneで 一日が暮れた。
このところMacのサポート窓口のお世話になりっ放しだ。

一昨日は迷惑メールの防御法について 設定を教えて貰った。
実は先日、バレエの発表会のクライマックスの場面で着信の振動が2度も来て、ハンドバックのなかで握りしめていたが、家族に何か有ったのかと不安だった。 休憩時間にそっと覗くとイヤアな迷惑メール、ホッとしてもの凄く腹が立った。
度々同じ内容で来る、夜中にも来るのには参った。
電話では難しそう、でもお店は遠いしとサポート窓口に電話したらホント判り易く教えて貰い 解決した!

友人とのお喋りは固定電話だ。私にiPhoneは宝の持ち腐れになりかねない。 アプリをダウンロードして好きな事をしよう!
それにはIDとパスワード要るが忘れてる。(いっぱい有りすぎるのだ)
新しいのに替えたが認証してくれない。 朝の9時過ぎに掛けて解決しないまま終わって別の窓口を教えて貰った。
何度も新しい設定のメールを貰って試すのだが、あちらと画面が微妙に違うらしく、別の方からメールで教えて貰う事になって遅い昼ご飯を食べた。

そのあと もう一度試してみたらナントすんなりパスした!
早速、めぼしいアプリをネットで捜す。
勿論 描画ソフトだ。
「書道」を¥350でダウンロードしたが、やはりカラーの絵のほうがいい。
もっと絞って検索したらアメリカ製のが幾つか見つかった。
試しに「Brushes]を¥500で。 チョットいい感じ。
雲を試しに描いてみたのが添付の絵です。 
試行錯誤しながら10分くらいで描いたからいい加減だけど 楽しめそうだ。

早速 iMacにUSBで繋いで取り込もうとしたら写真のようにはいかない。
ソフトの問題だろうなと考えたが、一応電話で聞いてみた。
「写真と違ってソフトの問題ですから」
「やっぱり〜  残念よね」
救済策を教えて貰った。 凄い勉強になった!
感謝感激! 無事 ブログに載せられた。

もう外は真っ暗、 でも楽しい一日でした。