敗戦の日 ― 2010/08/15
忘れられない8月15日がまた巡って来た。
武道館からの中継、全国戦没者追悼式を見て、310万余の戦没者の御霊に1分間の黙祷を捧げた。
いろいろの想いが走馬灯のように瞼の裏を通り過ぎる。
遺族の方々の哀しみを思った。
いろんな形で戦争の犠牲になられた多くの方々の無念さにも想いを馳せた。 せめて残されたご家族が今幸せでありますように!
私に出来ることは日の丸の小旗を振って駅まで見送った恩師や町の方々の顔を思い出し、白木の箱で帰ってこられた情景を忘れないことだ。
昨年もブログに「64年前の今日」のタイトルで思い出を書いている。
65年経った今年は玉音放送を聞いた思い出の情景を書こう。
疎開先で借りた家は村の有力な方の別宅だった。
中庭を抜けて枝折り戸の奥に離れがあって、大阪から疎開してこられたご夫婦が住んでいらした。
玉音放送を聞くようにと隣組から連絡が有り、何故か離れの前庭に父と赤ちゃんを抱いた姉と私と離れのご夫婦が12時前に集まった。
ラジオは家の前の台の上に置かれていた。
母は病後だったのでラジオが聞こえる渡り廊下の上に正座していた。 明治の女らしく天皇じきじきのお声だからと正装に着替えていたのにちょっと驚いた。
私も姉も普段着にサンダルだったが 放送が始まると流石に姿勢を正して俯むいて聞いた。
酷い雑音で辛うじて聞こえたのは(堪え難きを耐え 忍び難きを忍び」くらいだった。
真夏の 真昼の熱い日射しを浴びながら汗びっしょり。 蝉がやたらに鳴いていた。
終って顔を上げてから、皆で顔を見合わせ
「何だったのだろう?」
「戦局は厳しいから もっと頑張れってことかな」
耳の良い姉だけが
「戦争が終ったってことじゃない?」
「負けたってこと?」
まだ皆 半信半疑だった。
すぐあとに解説が放送されたかどうか記憶が無い。
敗戦の事実が隣組を通じてもたらされて初めて信じることができたのだ。
去年も書いているが、18歳の少女は ともかく「生き残った。
空襲も機銃掃射も無くなった」と先ず思った。
大人はいろいろのことを考え不安だったと思う。
敗戦の経験は初めてだったから。
8月15日が過ぎると重荷から解放された気分で少しホッとする。
心の奥に仕舞っている戦争中のアルバムはあまりに悲惨な方々の姿で埋め尽くされているから開くのが辛い。
武道館からの中継、全国戦没者追悼式を見て、310万余の戦没者の御霊に1分間の黙祷を捧げた。
いろいろの想いが走馬灯のように瞼の裏を通り過ぎる。
遺族の方々の哀しみを思った。
いろんな形で戦争の犠牲になられた多くの方々の無念さにも想いを馳せた。 せめて残されたご家族が今幸せでありますように!
私に出来ることは日の丸の小旗を振って駅まで見送った恩師や町の方々の顔を思い出し、白木の箱で帰ってこられた情景を忘れないことだ。
昨年もブログに「64年前の今日」のタイトルで思い出を書いている。
65年経った今年は玉音放送を聞いた思い出の情景を書こう。
疎開先で借りた家は村の有力な方の別宅だった。
中庭を抜けて枝折り戸の奥に離れがあって、大阪から疎開してこられたご夫婦が住んでいらした。
玉音放送を聞くようにと隣組から連絡が有り、何故か離れの前庭に父と赤ちゃんを抱いた姉と私と離れのご夫婦が12時前に集まった。
ラジオは家の前の台の上に置かれていた。
母は病後だったのでラジオが聞こえる渡り廊下の上に正座していた。 明治の女らしく天皇じきじきのお声だからと正装に着替えていたのにちょっと驚いた。
私も姉も普段着にサンダルだったが 放送が始まると流石に姿勢を正して俯むいて聞いた。
酷い雑音で辛うじて聞こえたのは(堪え難きを耐え 忍び難きを忍び」くらいだった。
真夏の 真昼の熱い日射しを浴びながら汗びっしょり。 蝉がやたらに鳴いていた。
終って顔を上げてから、皆で顔を見合わせ
「何だったのだろう?」
「戦局は厳しいから もっと頑張れってことかな」
耳の良い姉だけが
「戦争が終ったってことじゃない?」
「負けたってこと?」
まだ皆 半信半疑だった。
すぐあとに解説が放送されたかどうか記憶が無い。
敗戦の事実が隣組を通じてもたらされて初めて信じることができたのだ。
去年も書いているが、18歳の少女は ともかく「生き残った。
空襲も機銃掃射も無くなった」と先ず思った。
大人はいろいろのことを考え不安だったと思う。
敗戦の経験は初めてだったから。
8月15日が過ぎると重荷から解放された気分で少しホッとする。
心の奥に仕舞っている戦争中のアルバムはあまりに悲惨な方々の姿で埋め尽くされているから開くのが辛い。
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