バレエコンサート2010/08/01

フランス人形
昨夜は、友人の招きでバレエコンサートを観に行った。
クラスメートが今年は5人揃ってミニクラス会の趣きだった。子どもの時の友達は自然体でお喋りしてホッとした気分になる。

バレエスタジオの発表会なのだがプロの方達も出演されて本格的な舞台だった。
クラシックバレエ特有の流れる様な線の美しさ、鍛えられた肉体がつま先立ち、回転し、跳躍して舞う!
時にコミカルな動きが笑いを誘い、チュチュの可憐な華やかさに眼を奪われた。
男性の力強いバネのきいた動きが舞台を締める。
5〜6歳から中学生くらいの生徒さん達が素敵な衣装で物語のなかに溶け込んでいた。バレエの基本がキチッと身に付いて美しい。
一生懸命練習したんだろうね。
後半で生徒さんのお母さん方がメイドさん姿で親子で踊るシーンが有って微笑ましかった。 お母様方はこの場面のために稽古されたとか、素晴らしかったです。
最後はプロの方の踊り、流石だと見蕩れました。
フィナーレ、全員が次々出てきて皆揃って壮観、幕が降りて夢中で拍手した。 手が痛くなるくらい。 カーテンコールは既定だけどやっぱり拍手は大きい方がいい!
再び幕があがって花束を贈って、緊張の解けた笑顔がいっぱい!
夢見心地の楽しい4時間だった。

疲れ感じないくらい元気と勇気貰って、途中の駅で友と別れて家に10時頃着いて、パソコンを覗いた。
うわあ コメントを沢山戴いてるぅ!

電子スケッチ?2010/08/02

夏の公園
歯医者さんに行った帰り公園の中を抜けた。
昼前の公園はしーんとして樹々の濃い緑が陰を作っている。
iPhoneで何枚か写真を撮って帰宅してからiMacに取り込んだ。
この二つは相性がいいから(私が使い慣れてるから?)扱いが簡単だ。 Painter8で絵にしてみようと思った。
紙に絵の具でスケッチするようになって、すっかりCG離れしていた。 10年ぶりくらいかな。
機能は進歩しているがその分勝手が違って、思う様な筆が使えない。 試行錯誤の連続だ。
写真からクローン機能使って加工するといろんなバリエーションが簡単に出来るが、絵にするのは難しい。
やっぱりCGも手描きが好きだ。
でも、先ず各種の筆の特徴を覚えたいからクローン機能を適当に混ぜてアレコレ試してみた。
夢中で2時間くらいコネマワシタ結果が添付の絵だ。
やっぱり写真っぽいなあ。
しばらく勉強してみようかな って 今 思っている。
もっとじっくり時間掛けて取り組みたい。
気に入った電子スケッチブックが市販されたら使いたいもの!

記念日2010/08/03

石膏像と果物(油彩)
幼児を放置して死なせてしまった悲しいニュースが有った。胸が締め付けられる様な傷ましさと共に一生救いようの無い十字架を背負って行くであろう若い母親も可哀想との想いが心の隅にある。甘いかも知れないが独りで子育てする大変さ、そこから逃げたい気持ちは判らないでも無い。

50数年前に初めての子どもに恵まれた。 徐々に復興して生活は向上して来てはいたが、まだ給料遅配、ボーナス0の時代だ。
ベビー服も肌着もおむつも全部手縫いして、ベビーベッドは夫が手作りしてくれた。
「頭が挟まると危ないからもっと桟の間隔を細かくして」とクレーム付けた覚えがある。 夫は苦笑いしながら
「変なとこで神経質だな」
それでも注文通り立派?なのを作ってくれた。
その後、赤ちゃん用のテーブル付きの椅子も板を買って来て作ってくれて、私がペンキを塗って絵を描いたりした。

会社から帰って来た夫とよく川縁を我が子を替わりばんこに抱いて散歩したっけ。 そんなとき私の脳裏には、マンナ(赤ちゃん用のビスケット)買ってあげたいけど20円どこから捻り出そう なんて現実的な事が浮かんでいた。

親にも周囲にも助けを求める事なんて無かった。 みんなが自分の生活で必死だった時代だ。
でも夫がいてくれたから私でも子育てが出来たのだと思う。
日本の経済も上昇機運で先は段々良くなる、今さへ乗り切ればって確信のようなものがあった。
戦争末期、敗戦直後に比べて 親子の幸せな暮らしを感謝した。

時代によって欲求は違うのだろう。 昔の尺度で今は計れない。
でも 独りでの子育ては重荷だったろう、助けを呼べないのが都会かな。 指弾はいくらでも出来るが、こういう事件が起こる前に私に出来る事って何も思いつかない。
マンションに生活するようになってその感は深い。

今日は初めての子が産まれた記念日だ! あの日の情景が細かい事まで思い出されてちょっと感傷的になっている。

古い日記2010/08/04

暗雲に覆われた空(カメラで)
私にとって8月は昭和20年の記憶が心の奥底から浮かびあがってくる鎮魂の月だ。
2回の原爆投下、15日の敗戦の日。
戦争による多くの犠牲者のことを思い出し悼みの念を捧げる。
決してあの戦争の事を忘れてはいけない、2度と繰り返してはいけないと心に誓う。
もう敵も味方も無い、皆が愚かな戦争の犠牲者だ。 その尊い命から得た教訓をしっかり心に刻んでいよう。

古い小箱から変色した当時の日記を出して見た。
気紛れに飛び飛びにしか書かれてない日記だが昭和20年8月のところを開いてみた。

八月七日(火曜日)
 太陽が輝く
 私は
 あのさんさんとふりそそぐ光をあびて
 終日 まばゆい 青空をながめて 寝ころんでいたい
 私は
 あの光のもと ギラギラ きらめく
 海の面を みつめながら 終日 真白い
 防波堤に こしかけていたい
 何もかも 忘れてしまひたい
 真夏の 太陽のもと

日々の雑事に追われ希望を無くして悶々としていた或る日の一節。
 此の頃 過去がなつかしくなって来たの
 まだ十九なのに 
 思い出に生きるには ちょっと 早すぎるのに
 希望と理想に生きたいと思ひつつも
 昔の事が思ひ出されてたまらないの

敗戦直後の日記には
 ジャリのような絶望
 今日も一日、 また一日
 絶望と不安の中に
 こんな荒んだ気持ちで 私の一生は終わるのか
 死の恐怖がひしひしと身にせまる

日記を拾い読みしてその暗さに驚いた。
結構悩んでいたんだ。 それを人に知られる事はプライドが許さないとも書いている。
若さに悩みは付き物だ。 今読めば我ながらいじらしい感じ!
そのうち 焼くわけにいかないからシュレッダーにでもかけて始末しよう。 数えで十九歳の私が恥ずかしがるだろうから。

学徒動員のころ2010/08/05

荒波に翻弄されて
戦争中の女学生のことを教えて欲しいと言われた。
以前にも何度か触れているが、やっぱり8月のせいかな、そのころのことが懐かしく思いだされる。
自分の記憶だけではアヤフヤなので友達に電話して聞きかけたら、すっかり回顧談に花が咲いて楽しんじゃった。

「工場へは何着て通ったっけ? 制服じゃなかったよね」
「私服よ。冬はオーバー着て、防空頭巾を肩から下げて」
「カーキー色(モスグリーン)の戦闘帽かぶってた」
「もんぺはいてる人いた? 私はズボンを作ってはいてたけど」
「ズボンが多かったけど、もんぺの人もいたわよ」
「靴が無くて父の革靴履いてたら、そういう人増えたわよ」
「あの頃の鮫皮の靴ってすぐ破れたのよね」
休日は2週間に1日だけ。24時間を3交代で分担した。
寮に帰れば死んだように眠っていたっけ。
無論、着のみ着のままだ。
空襲警報で何度も起こされ地下の防空壕に退避した。
「寮の食事酷かったよね。脱脂大豆粕にお米がチョット混ざってるご飯にお漬け物だけ!」
「クリスマスイブに小さなお肉が浮いてたスープ覚えてる?」
「うん 頂いたわよ」
「あれってテニスコート歩き回って可愛がられてた鴨。私の周囲の何人かはじーっと俯いて口付けなかった、みな優しいなと恥ずかしかった」
共通の思い出が広がって行く。
「楽しい事あった?」
「ううん 何も思い出せない。 結構軍国少女だったのかも」
「私、○○ちゃんとエスケープして石山寺で半日遊んで気を取り直した。 先生黙ってっ許してくれたの今でも感謝してる」
私は大学教授の娘さんから禁断の外国小説を借りて歩きながら読みふけったこと。
前にも書いた倉田百三「出家とその弟子」の話をしたら
「みんな あの本読んだよね」
皆 精神的なものを求めていたのだと思う。

あの頃は私は勿論、みなオクテで恋愛に対する憧れなんてなかったし話題に上る事も無かった。 信仰のない人間は哲学に走っていた。
お洒落に関心も無かったから、やっぱり楽しみは読書だったかなあ。

私は女学校4年生から女専に入ってしまったが、女学校5年に進んだクラスメートはすぐに工場に行く事になり、そこで苦楽を共にした友情の絆はこの歳になっても固くて羨ましくなる。

取り留めなく書いて参考になりましたかぁ? 具体的に知りたい事があったらコメントください。