進化は不便?2010/03/07

暗い海辺の断崖

ことの起こりは長年親しんだマックに並行してWindowsvista搭載のノートパソコンを買ったことだ。
炬燵で簡便に、それなら多数派のWindowsやってみよう! くらいの軽いノリだった。
 
使いだして アバウトな私には向いていないと感じた。
本当は老化した脳が自分の思考体系に固執しているせいなのだが、認めたくないから八つ当たりしている。
文句を言いながらも、キチッと勉強すればexcelやwordの便利さは感激ものだった。
しかし、残念ながら私の生活でそれらを活用する事は少ない。 せいぜい家計簿と名簿くらいだ。

画像の取り込み、修正、加工、保存が主になっている。
ソフトはpainter8をずっと使ってきた。 ほんとうは4でも6でも充分だったが8でストップした。
これがWindowsvistaに対応してないことに半年くらいしてから問い合わせて解った。
試しに最新の11をダウうロードしてみたら、随分進化しているのだろうが複雑なのだ。 例えば「歪む」機能が「効果」のところからで解りやすかったのに、何段階もの手順が要る。
機能アップするには仕方ないのかも。

携帯電話でも最初のは単純明快だった。
先日、カメラもワンセグも要らないから、字の大きい高齢者用に買い換えようとしたら2万7千円! 馬鹿らしくてやめた。

文書かくならワープロが便利だったなあ。

機器が進歩するということは、高機能になってしかも使いやすくなることであってほしい!
デジタルカメラなどは良いほうの例だと思う。

さらなる要望はパソコンが新しくなっても使い慣れたソフトにも対応して欲しい。

80歳、90歳になってもパソコン続けたい、始めたいって方潜在してるんだから。

耳鼻咽喉科2010/03/08

春めいて

風邪は治ったはずなのに咽がいつまでもスッキリしない。
思い切って耳鼻咽喉専門の医院を訪ねた。 去年のどに刺さった鯛の小骨を取って戴いた先生だ。
11時ごろ到着して、受付に表示された待人の数の多さに驚いた。
「午前中はもう無理です。 午後1時半ごろ外の廊下で順番を待ってください」
とのこと。   
うわ~  2時間半もつぶさなくちゃぁ  前はこんなに混んでいなかったのに。

仕方なく少し離れた街をぶらついた。 時間が十分あるっていうのもたまにはいいもので、いろんな商品をじっくり眺めて、 帰りに買うつもりだった食品も選んでショッピングカーに詰め込んだ。

1時に医院に戻ったら廊下のベンチに熟年の男性が お一人、
「午後の受付待ちでいらっしゃいますか?」
そうです ってことで隣に座って一安心。
何故こんなに混むのでしょう と言うと
「花粉症のせいですよ。 僕もそうなんですが」
ここの先生の治療はとっても良く効くのだそうで、評判を聞いて随分遠くからも来てられるとか。

私の次の女性は、難聴の治療とのことだった。
「左耳が全然聞こえなかったのが治ったのよ。 持続するために月に1度診てもらうの」
私も子どもの時からの慢性中耳炎で左は難聴気味だ。
ホント 耳よりの話だった!

感じよくて信頼できそうな先生とは思っていたけど、名医でいらしたのだ!  ヨカッタ!
それから1時間待たされたが苦にならなかった。
治療して戴いて 耳も喉も久しぶりにスッキリした感じだ。 信頼感による部分も大きいと思う。

帰りに受付の方が 「花粉の時期が過ぎればこんなに混みませんから」 と親切に言って下さった。

デパート今昔2010/03/09

アンティークな静物

昨日、医院の待ち時間をつぶすためデパートのなかを歩きまわった。
老舗のデパートだがブティック、靴、宝飾、雑貨などなどのすべてがテナントで占められている。 気がついてはいたがゆっくり見て時代の変化にチョッと感傷的になった。

テレビやゲーム、ディズニーランド、家族旅行などのなかった昭和初期の子どものささやかな楽しみはデパートについて行くことだった。
 (動物園と宝塚はあったけど、デパートのほうが日常的だった)
母親たちの楽しみで子どもはお添え物、反物選びの間はひたすら我慢。  店員さんに反物を広げてもらっての柄選びは長かったぁ。

子どものよそゆきの洋服もデパートで買ってもらった。
その頃の私はお洒落に興味がなかったから、生地もデザインも母任せだった。
 (エピソード:小学3年のころ、オーバーを誂えたら採寸を7を1と読み違えて丈の短いものが仕上がり、折り返しをいっぱいに伸ばしたが、すぐに着られなくなって母がこぼしていた思い出。 どういう話し合いがなされたのだろう)

母の仲良し家族と一緒で、8階建のデパートのあちこち見て回って、買った品は最後に地下の荷物預かり所に纏められていて自宅に届けてもらう仕組みになっていた。

そうして やっと 子どもたちが最大の楽しみにしていた8階の大食堂に行く。
広い食堂の白い布が掛けられた丸い大きなテーブルの一つに陣取る。
テーブルの上には白い土瓶と伏せた湯のみの載ったお盆が置いてあって客は先ず自分たちでお茶を注いで一息入れる。 メニューを見ながら子どもたちの希望を聞く。
皆の注文が決まるると卓上の丸い置物の天辺のベル?を押すと外国映画で見るメイドさんのような服装のウエイトレスさんが姿を現す。 不思議だった。
オムライス、カレーライス、海老フライなどしか記憶に残っていないが、
デパートの大食堂は子どもにとって特別の場所だった。

屋上に子供向けの遊技場が有ったような気もするが、こちらの記憶はおぼろげだ。

昭和12~3年ごろまでの庶民のささやかな幸せの思い出。

東京大空襲2010/03/10

赤富士

1945年3月10日の未明、東京はアメリカ軍の大規模な爆撃で10万人が亡くなり焼け野原と化した。
関西で育ち、疎開地の農村地帯にいた私に実感はなかったが、数少ない情報からもその惨状は想像できた。
小さな町に辛うじて難を逃れたて疎開してきた家族の方から、地獄絵のような体験を聞いた。
私も疎開者の一人として深く同情したが、しがらみの強い古い町では、理屈を通す東京人の言動はあまり歓迎されなかったようで気の毒だった。

2ヶ月後には大阪大空襲があり、8月には広島、長崎の被爆と続く。
私は直接に経験せずに終戦を迎え生き延びた。
近い人にも空襲を直接経験した人は少ない。
運が良かったと感謝するが、それを直に経験した方々との差は大きいと思う。
沖縄の痛みも同じ、どれだけ心の底から解っているだろうか。

終戦後3年ほど経ってから、生まれて初めて東京に出張で行った。
書類を届けるだけの任務が済むと、物珍しくて銀座に行き道端の露店でヤミの飴玉を買った。
皇居のお堀端の崖の上からは、一面の焼け野原が広がり 遠くにビルが幾つか見えた記憶がある。
怪しげな食堂で、隣席の男性のスープを飲んでしまったり、おのぼりさん宜しく独りでうろつきまわって宿舎に帰ると上司が痛く心配して待っていた。
若い時は無謀だったなと思う。

行き帰りの車窓から 初めて見た富士山は美しかった。 「国破れて山河あり」

呑気なことを書いてしまったが、今朝は心から犠牲者の方々への哀悼の想いを捧げ 世界の平和への願いあらたにしました。

命を貰って生きる2010/03/11

カンパニュラ

若い時、牛の屠殺場を見学したことがある。
大きな木造の三面しか壁のない ガランとした建物だった。
中は照明も無く薄暗かった。

やがて奥の方から 黒い大きな牛が 鼻面に通された綱を曳かれて現れて、中央まで来た途端に、屈強な男性が歩み寄って、長い柄のついた斧のようなものを振り上げ 牛の眉間を撃った。
その一撃だけで 牛は膝を折り 崩れるように倒れた。

部外者で見ていたのは案内してくださった方と私だけ。
映画の一駒のような、現実感のないシーンだった。

その夜、村の方々からすき焼きをご馳走になり、昼間の光景を忘れたように美味しく食べてる自分がいた。

戦争で死と隣り合わせの生活をしてきて鈍感になっていたのかもしれない。
又は、若い時は衝撃的であるはずの事もあまり抵抗なく受け入れてしまうのだろうか。

しかし、60年昔見た光景がずーっと心の奥に潜んでいて時折現れて色んな事を考えるのだ。
人間は 牛や 豚や 鶏や 諸々の魚介類などの命を貰って生きている。
「ダーウィンが来た」を見るまでもなく、弱肉強食は世の常、生態系に人間も組み込まれているのは解っている。

疎開していたころは、その辺を歩いている鶏を小父さんが捕まえ首を捻って、羽を毟りとり 解体して夜の鶏鍋になったのを見た。
今はスーパーで綺麗にパッケージされてるから食材として抵抗なく買える。

年齢かなあ 
殺生が応える気分になった。 水槽で泳いでいる魚を コレって選ぶの辛いな。
せめて 貰った命は絶対無駄にしたくない。
私の命の一部に再生させてもらうことで納得したい。

人間以外の生物に人間的な感情移入する気は更々ないが、諸々の生命体を愛おしく思うようになった。