12月2009/12/02

エンゼルもXmasが楽しみ?
12月の子どもの楽しみは昔もクリスマスだった。
教会の日曜学校では、クリスマスイブの発表会のための練習が始まる。 
星を見つける牧童、それを頼りにキリスト生誕の馬小屋に礼拝に来る3人の博士、見守る天使などなどのストーリーをお姉さん方が指導して父兄の前で演じるのだ。
劇の後では長老がサンタクロースの扮装で子ども達にプレゼントを配ってくださった。
クレヨンとか色鉛筆など、ささやかな品だったが楽しかった。
総てが質素だったが美しい賛美歌と敬虔な祈りに満ちていた。

やがて日曜学校とも縁が無くなったが12月になると思いだされる懐かしい心温まる一齣だ。

(今回の添付画はクリックすると大きくなります)

情報2009/12/04

無題
この歳になると社会の生の情報を聞くことが少なくなる。
TV、新聞、雑誌の情報に溢れているみたいなのだが、人生の現役のときに肌で感じた情報とチョッと違う気がする。

ニュースは圧倒的に悪いこと、悲しい事が多いのは仕方ないと思う。 平穏無事ならニュースにはならない。
月刊誌を購読している。100頁余りの薄い冊子で表紙のレオナルド・ダ・ビンチの素描画に惹かれたのだが、内容が濃いくて啓蒙される。 しかし辛口で読むほうはシンドイと思うようになった。
引用の可否のルールを知らないから書かないが、すべて悲観的な見出しで、読めば尤もと思うが、全貌に疎い人間は日本は、世界はどうなっていくのだろうと、もはや発奮も手段も持てなくなった私は暗くなる。

戦前、戦中の嘘で固めた報道のようなことは二度と有ってはならないし批判の自由は大事な事だと身に沁みている。
でも 少しは明るい希望が持てる記事もあるといいな。
お笑いとか美談でなく。

現実には、今の私はこれまでの人生のなかで一番平和で恵まれた時だと思っている。 若い世代の方達と話すと実にしっかりとまともな考えと実行力を持っていると感心する。
技術の開発の話しなどを聞く機会が有ると凄いなあと感嘆し嬉しくなるのだが。

昭和16年12月8日2009/12/08

夕日 やがて長く暗い夜

太平洋戦争始まる。
女学校2年生になっていた私は朝2階から降りた途端にお茶の間のラジオから上ずったアナウンサーの声が飛び込んだ。
米国と戦闘状態に入った、真珠湾を攻撃して何隻もの軍艦を撃沈した事を正確な言葉は忘れたが何度も繰り返し、その間に軍歌が流れた。
父は複雑な表情で「まさかなあ この間ゴルフの仲間と今年中に日米開戦有るかを賭けて、無いと思ったから有るほうにしたのだが・・・」と不謹慎なことを言った。 先の事を考えての不安を隠していたのではないか。
一番亢奮していたのは中学5年生の兄だった。ラジオの新しいニュースを聞き逃すまいと二階の自室との間を何度も往復していた。 3年後学徒出陣することになるとは予想してなかっただろう。

華々しい戦果と勇ましい軍歌に何となく高揚した気分で登校した。 教室ではグループごとに集まってその話しで持ち切りだった。 
私は親友と二人、校舎の裏庭の芝生に座って柔らかな日射しを浴びながら今朝聞いたラジオの内容を思い返していた。 ずっーっと黙っていた彼女がポツンと「朝から軍歌ばっかり 変なの」と呟いた。 いつもにこにこして穏やかな彼女の言葉に驚いた。
何も解らず上ずっていた私の気分もその一言で現実に引き戻され、これからどうなって行くのだろうと微かな不安が生まれた。

でも、そういうことを絶対に口に出せる世の中ではない。
心の底からお国のためと奮い立った人も大勢いたと思う。
日本が貧しくそこまで追いつめられていたのも事実だ。(あとから考えればそれまでに幾つかの選択肢は有ったと思うが)

彼女の父親は祖父を継いで商社マンだったが学究肌の方で世界の事情にも通じていらしたようだ。 そういう雰囲気が彼女の独り言にでたのだろう。

女学校2年生に深い事が解る訳もなく悲惨な戦争の暗闇の始まった昭和16年12月8日だった。

戦争の色は?2009/12/09

空き地

朝のTVでそんな質問をしていた。 
若い人たちが 赤=血の色 黒=暗いイメージ などなど考えながら答えていたが実感は湧かないみたいだ。 無理ないと思う。
私だって生まれる前の戦争は教科書で読むだけで遠い歴史の一齣以上の感慨は無かったもの。

支那事変から太平洋戦争はまともに経験というより、その渦中で大きくなった。 
私の記憶に残るその時代の象徴はカーキ色だ。
 手元の電子辞書には(土ぼこり)黄色に淡い茶色の混じった色。枯れ草色。とある。
陸軍の軍服、戦闘帽、背広に替わって制定された国民服、足に巻く事を強制されたゲートルの色など、みなカーキ色の類いだった。
女性も渋いくすんだ色の服装で、モンペをはいていた。
ウールなど貴重だったから昔のオーバーを仕立て直す際には赤い繊維を抜き取った覚えがある。

鮮やかな赤は日の丸くらいだったかな。
暗い街のなかで目立ったのは海軍の真っ白な軍服、 少年や少女が憧れたのも無理は無い。

日の丸の寄せ書き2009/12/10

遠い海の彼方で

アメリカで日本兵が身につけていた日の丸が売買されている話しをTVで見た。また遺品として遺族に返す運動をしてる方達のことも放映していた。

見ているうちにタイムスリップした感じでまざまざと当時の事を思いだした。
小学2年、3年の担任の先生は予備軍人で良い体格で頭がツルツルに光っていらしたのは軍帽を常に被っていたからだそうで、まだ28歳と伺った。
子どもにはとっても優しい先生で美しい奥様と可愛い坊やがいらした。
学芸会の舞踊の振り付けもなさるし、男の子も女の子も先生を慕っていたが、先生ご自身は平穏な教諭生活に飽き足らず前線に出て国のために働きたいと洩らしていらしたと後で聞いた。

日米開戦となるや召集令状が来て先生は喜ばれたそうだ。
昔の教え子が集まって、大好きだった先生のために日の丸の寄せ書きをした。 日の丸の白地にぎっしり、私も下手な字で名前を割り込んで書いた。
小学校の校庭で行われた壮行会で壇上に上がった先生は「男子の本懐」意気軒昂 もう使命感に溢れて居られた。 一緒に招集されて隣に立たれた方が何だかしょぼんと見えて送りに来ていた母達は後で気の毒と囁き合ってた。
その後新聞の地方版に先生の活躍ぶりが報じられたりしたが、シンガポールだったか小隊長として先頭に立って突撃し、名誉の戦士を遂げられた記事がでた。

先生は本望だったと思いたいが残された若い奥様と坊ちゃんはその後どういう人生を歩まれただろうか。
その頃は毎日戦死された方の報が新聞に載ってるころだったから少し麻痺していたが戦後の日本のなかで時々ふっと昔の事を思い出すして切ない気分になる。

贈った日の丸は、まだ開戦から早い時期だったせいか遺品として還ってきて、たしか小学校で追悼の会があったとき他の遺品とともに飾られて複雑な想いで自分の字を見た覚えがある。