昭和13年の阪神大水害2009/07/05

昭和13年7月5日
小学5年生だった私は前日まで風邪で休んでいたので母が学校まで送ってくれた。
数日続いた梅雨末期の大雨で家の前を川は橋桁すれすれまでの濁流、普段は水のない白い砂ばかりの川なのに。
学校に着くと豪雨を心配して付き添ってこられたクラスメートのお母様が不安げに話しかけられた。 数時間後避難された群れの中にお見かけすることに。
確か授業が始まったばかりのころ、川が氾濫したとの情報が先生にもたらされた。 工作室にいた記憶、何を作っていたのか覚えてないが慌ただしい先生方の行き来に関係なく皆黙って工作していた。
休み時間に雨天体操場に行って驚いた。広い板の間は避難してきた町の家族で埋まっていた。
川の上流で堤防が切れ六甲山から怒涛の勢いで流れてきた土石流が住宅街を襲ったとか。
町立の小学校は町の中央にあり、当時にしては珍しい鉄筋3階建ての立派な校舎で新興住宅地の人口増加でもう一棟建て増し両棟を繋ぐ形で広い雨天体操場が作られていた。
  記憶に新しい阪神大地震のときもこの校舎は健在で避難場になっ
  てる光景をテレビで見た。
避難現場の近くで母は炊き出しの手伝いをしていた。 帰ろうとしたとき既に避難の方々が次々見えてそのままお世話をすることになったらしい。
生徒はそのまま授業を受けて普通に帰ったように思う。
私自身に緊迫感はなく一人で帰宅途中、朝の濁流が嘘だったように流れはなく茶色になった川底が見えていたのに驚いた。
上流の決壊で流れが変わり海の近くの我が家には何の変化もなかった。
姉は山麓の女学校に通っていたので土石流の直撃を受けた。
後日の記念文集で読むと、皆生きた心地はなく持ってるお守りを教壇に集め助けてと祈ったそうだ。
女学校のすぐ後ろを走る省線電車が立ち往生して、校舎の窓とをロープで繋ぎ濁流の上を渡る避難騒ぎもあったようだ。 無事到着するたびに女学生たちは拍手し声援を送ったとも。

夜遅く姉は級友を二人ともなって帰ってきた。交通機関麻痺で彼女たちは帰宅できなかったらしい。
今思うとのんきな話だがその夜姉たちは合宿気分で夜更けまで談笑してる声が聞こえてきた。
数日して被害にあった地域の友人宅を訪ねると一階は天井近くまで土砂で埋まっていて水害の恐ろしさを実感した。
私の知人で亡くなった方はいなかったが2年後姉の通った女学校に進学してから、小学部から来たクラスメートには姉弟を亡くしたひとが何人かいて話をきいて痛ましかった。 校舎を直撃されたらしい。

すぐに小学校の前の空き地に仮設住宅が作られ半年か1年くらいそこに生活している方々の姿があった。

17歳まで暮らした阪神間ほど愛着のある地はない。幾たびかの試練を明るく助け合ってきた新興住宅地ゆえのしきたりや差別の少ない温かさが好きだ。 こどもでよく分からなかったが今にしてあの災害で亡くなられた六百数名の方々の冥福を祈る。