今週中には2020/05/20

日があっという間に過ぎ去って行く。
一日が短い。
蟄居中にと遣りかけた整理のアレコレも捗らない。
この機会に徹底的に最善をと思うから、迷いがでる。

昔、書き散らしたモノが出て来るとツイ懐かしくて讀み耽ったり、滅多に見直すことのない古い写真に想い出を新たに〜
一応、アルバムを新しくして収めたのに、気に入らなくて再編成。
まったくぅ 時間に追われないからケジメが無い。

昨夜は例の薬の仕分けに時間が掛かってしまった。
と 言い訳ばかりだ。

TVを見てると、お仕事や家庭を持たれてる方々はホントに大変そう〜
私など、申し訳ない気持ちになる。
先の見えない世相に、ついつい戦時下の重苦しかった状況を思い出してしまう。
無論、比べるつもりは無い。

一日も早い収束を願いながら、整理も今週中には終りにしよう。

一日一枚のスケッチも未だ実現できないもの。

なかなか写真も撮れなくて、お隣のストアに買い物に行った折、植え込みのツツジが満開だったので。

能率悪くて2020/05/22

この際、徹底的に身辺整理しよう。
一応、今週中が目標と決めたが、まったく能率悪くなってる。
やっと、今日で写真がマアマア何とか。

夫の定年後、海辺の家に移って楽しんだ18年間を分厚いアルバム二册に纏めた。
何時か遣ろうと6冊ほど用意してて、ヤット役に立ったなと笑ってしまう。
360枚入りだけど同じようなのは重ねていれてる。
ジックリ眺めて、想い出に耽れただけでも良かった。

残りの4冊には、これまで描いた絵や、人形の作品集に。
引越す度に持って来れなかったから、懐かしい。
オフやクラス会の写真集も。

やたらと写真が増えたのは30年ぐらい前からだ。
その前は、旅行には専らビデオカメラをぶら下げてた。

子どもの時は、特別の時に写真屋さんに撮ってもらうくらいでアルバム帖は貴重品だったな。

今や、カメラは時代遅れの感で、すべてスマホで、焼き付けることも無い。
私だって、撮った写真はパソコンでしか見ないもの。
もうアルバムも増えることは無いと思う。

さぁ 明日はノート整理を。
早く片付けて、写生もしたいし本も読みたい。
歩かないと脚もヤバいです。

添付写真は何も無くて、画集の中から数年前に描いたミヤコワスレを。

昭和に生まれて(9)2020/05/23

「入学式の想い出 」
昔は4月1日に入学式が行われた。
私は昭和9年に小学校に入学した。
幼稚園を拒否したから団体生活は初めてだったが 兄と姉の様子を見てたから あまり緊張感はなかった。 

講堂で盛装した着物姿の母親がたに見守られながら 皆おとなしく椅子に腰掛けていた。 
壇上の校長先生は威厳があったが優しそう、母親同士の会話から人格者だと聞いていた。

新入生は一人ずつ名前を呼ばれると「ハイ」と答えて起立して行く。 
私の番になったら、違う名前を呼ばれた。苗字は合ってるのだが名が違う。 
一瞬戸惑ったが漢字の読み違えと思って返事をして立った。

その頃女の子には「子」がついたが。我が家は父の方針で末尾に「子」がない。
それで男の子と間違え、男らしい読み方をしたみたいだ。
(註)ヨシカズ君と 
母は父兄席で私が泣き出すのではないかとハラハラしたそうだ。
ほんと 大人しいくせに大声で泣く子だったから。

式が済んだ後、教室に入り担任の先生に初めて会う。 
熟年の穏やかな男性の先生でホッとする。 
男女併せて50名のクラスだった。
世間知らずの ぼんやりした女の子だったと思う。
しかし クラスの子も みな おとなしかった。

十数年前に農漁業の地から新興住宅地に変貌した町だから、格差社会で公立小学校はその縮図でも有ったが イジメのような陰湿なものを私は見たことがない。

小学校は楽しかった。 
始業の1時間前には登校して 縄跳びやドッジボールで遊び、放課後は下校のチャイムが鳴るまでまた校庭で遊び、そんまま空き地でまた皆と遊んだ。

クラスメートの家にも よく押し掛けたが、家の方は知らん顔で
その自由さが嬉しい。 
洋室のハイカラな子供部屋の子、広大な敷地の中の離れの鍵を爺やさんが開けてくれる家、トイレの臭いのする部屋で角砂糖1個を大事そうにくれた友、継母に邪険にされながら甘えようとしていじらしかった友〜、
昔の公立小学校に通って学んだものは大きかった。

女学校に進学する時、進学出来ない友がいる現実がショックだった。 
自分が恵まれてることにあまり気がつかず、相手の痛みも理解していなかった。
我が家も、たいしたことなく典型的な中間階層だったが。

ま そういうことの始まり、社会生活に足を踏み込んだ 記念の入学式ではあった。 
あの時の光景が未だに眼に浮かぶ。
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「昭和に生まれて」の続きが、当時の写真などをこちらに持ってきてなくて書けないままでした。
遅くなってしまいましたが2010/04/01のブログからです。
「美和」を「ヨシカズ君」て呼ばれて〜
帰宅出来るようになったら、当時の小学校の写真を添付したいです。

当時にしては立派な鉄筋コンクリートの三階建てで中央に時計台が聳えていた。
校舎の前には、楠木正成と二宮金次郎の銅像が〜
昔は子沢山だったから生徒数は高等科を入れて2千人くらいになり、私が入学する前に新校舎が後ろに建てまされて、それを繋ぐように大きな雨天体操場も。
まだ神戸市に編入されてなかった阪神間の町で、
 明日に仰ぐ 六甲の〜
 夕べにのぞむ  ちぬの海〜
って行進曲を運動会のおりには歌ったものです。(歌詞はもうあやふや)

母の想い出2020/05/25

整理をしてると懐かしい品々が出てきて、思わず見入ってしまう。
昨晩は、昭和34年に見送った実母の追悼集を読み返した。
何十年振りかも。

母は女学校を卒業した翌年に10歳年上の父と見合い結婚して、私が生まれた頃には阪神間住まい。
私が覚えている母は社交家で、友人も多く、デパートや宝塚も楽しんでいた。
でも 昔のことだから子どもには判らない苦労も多かったろうとは、後で思う。

終戦の翌々年に疎開先の農村で父が亡くなって、私も結婚してからの母のことはよく知らなかった。

改めて追悼集を読み返すと、なんだかジーンとしてしまった。
趣味だった人形作りを、学院に習いに行って人形教室を開いて自立。
家庭裁判所の調停委員も委嘱されてたと。

私が生まれた頃に父と一緒に句会に参加してた川柳の先生の元にも伺うようになって新しい句を詠んでいる。
その先生ご夫妻が追悼文を書いて下さってて感謝した。

本の前半は、母の遺稿の何編かと川柳、後半は先生や友人、家族の思い出話。
編集して下さったのは、母が当時、親しくさせて頂いてた支局のお若い新聞記者の方々です。

なんか 大昔の身内話を書いてしまいました。

蟄居中で、話し相手もないせいかな。
添付写真は、その小さな本。
表紙の絵は、滋賀県の堅田の浮御堂を姉が師事していた小出卓二先生が描いてくださいました。

ほんと 大昔に〜

緊急事態宣言解除2020/05/26

歯科医院の予約日、
今日、東京都も緊急事態宣言が解除されたけれども生来臆病だから、厳重にマスクして出掛けた。
ビルのエレベーターも、医院の待合室も無人でホッとする。
未だ予約を制減をされてるのだろう。

丁寧に処置して頂いて有り難い。
もうこの歳になればガタガタだもの。

振り返れば蟄居生活も長かった。
恐がりだから病院には伺えず、無理を言って診療を延ばして頂いたが、今週末には診て戴こう。
お薬も残り少なくなって心細い。

幼い時から、父が勤務してた病院に独りで、よく診て貰いに通ったし、結婚してからも親戚にも多くてお世話になった。
義父も歯科医で、すっかり甘えて治して貰っていたから頼る癖がついている。

蟄居生活のせいにする気はないが、脚もスッカリ弱ってしまって不便だ。
昨日は足慣らしを兼ねて、少し遠いストアに行ったが〜
ヤッパリ、毎日歩かないとダメと痛感させられた。

今日はグチっぽい話しになりましたが、自戒のためです。

添付写真の絵は、アトリエの写生会で郊外の大きな公園に連れて言って戴いたおりののスケッチです。
その時の状況は覚えてるのに、年月日も場所も朧に〜
画紙の裏にでもチャンと記録して置くべきだったと悔みます。