昭和に生まれて(9)2020/05/23

「入学式の想い出 」
昔は4月1日に入学式が行われた。
私は昭和9年に小学校に入学した。
幼稚園を拒否したから団体生活は初めてだったが 兄と姉の様子を見てたから あまり緊張感はなかった。 

講堂で盛装した着物姿の母親がたに見守られながら 皆おとなしく椅子に腰掛けていた。 
壇上の校長先生は威厳があったが優しそう、母親同士の会話から人格者だと聞いていた。

新入生は一人ずつ名前を呼ばれると「ハイ」と答えて起立して行く。 
私の番になったら、違う名前を呼ばれた。苗字は合ってるのだが名が違う。 
一瞬戸惑ったが漢字の読み違えと思って返事をして立った。

その頃女の子には「子」がついたが。我が家は父の方針で末尾に「子」がない。
それで男の子と間違え、男らしい読み方をしたみたいだ。
(註)ヨシカズ君と 
母は父兄席で私が泣き出すのではないかとハラハラしたそうだ。
ほんと 大人しいくせに大声で泣く子だったから。

式が済んだ後、教室に入り担任の先生に初めて会う。 
熟年の穏やかな男性の先生でホッとする。 
男女併せて50名のクラスだった。
世間知らずの ぼんやりした女の子だったと思う。
しかし クラスの子も みな おとなしかった。

十数年前に農漁業の地から新興住宅地に変貌した町だから、格差社会で公立小学校はその縮図でも有ったが イジメのような陰湿なものを私は見たことがない。

小学校は楽しかった。 
始業の1時間前には登校して 縄跳びやドッジボールで遊び、放課後は下校のチャイムが鳴るまでまた校庭で遊び、そんまま空き地でまた皆と遊んだ。

クラスメートの家にも よく押し掛けたが、家の方は知らん顔で
その自由さが嬉しい。 
洋室のハイカラな子供部屋の子、広大な敷地の中の離れの鍵を爺やさんが開けてくれる家、トイレの臭いのする部屋で角砂糖1個を大事そうにくれた友、継母に邪険にされながら甘えようとしていじらしかった友〜、
昔の公立小学校に通って学んだものは大きかった。

女学校に進学する時、進学出来ない友がいる現実がショックだった。 
自分が恵まれてることにあまり気がつかず、相手の痛みも理解していなかった。
我が家も、たいしたことなく典型的な中間階層だったが。

ま そういうことの始まり、社会生活に足を踏み込んだ 記念の入学式ではあった。 
あの時の光景が未だに眼に浮かぶ。
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「昭和に生まれて」の続きが、当時の写真などをこちらに持ってきてなくて書けないままでした。
遅くなってしまいましたが2010/04/01のブログからです。
「美和」を「ヨシカズ君」て呼ばれて〜
帰宅出来るようになったら、当時の小学校の写真を添付したいです。

当時にしては立派な鉄筋コンクリートの三階建てで中央に時計台が聳えていた。
校舎の前には、楠木正成と二宮金次郎の銅像が〜
昔は子沢山だったから生徒数は高等科を入れて2千人くらいになり、私が入学する前に新校舎が後ろに建てまされて、それを繋ぐように大きな雨天体操場も。
まだ神戸市に編入されてなかった阪神間の町で、
 明日に仰ぐ 六甲の〜
 夕べにのぞむ  ちぬの海〜
って行進曲を運動会のおりには歌ったものです。(歌詞はもうあやふや)