あれから9年が〜2020/03/11

2011年5月28日のブログより
入院して20日ばかり経ち膵炎の治療薬や栄養補給などの点滴で24時間ベッドに寝たきりのときに東日本大震災が起こった。
震度5強だったが避難する術も無くベッドの柵に身を寄せて布団を冠り頭に枕を乗せて踞っていたが不思議と恐怖感はなかった。

若い看護師さんが
「大丈夫ですか? 私ここにいますから」
チラッ見ると入り口でよろけながら踏ん張っておられる。
「私は大丈夫よ!」
と大声で応えたが彼女のプロ精神に感激したなぁ。
自宅に居たらマンションの最上階で一人できっと心細かったと思う。 
後で家族に聞くと落下物や壊れた家具でかなり酷い状態だったとか。
病院に居て良かった。

それから毎日ニュースで被害に遭われた方々や被災地の状況を知りただただ暗澹たる思いだ。 お見舞いだの同情だのの言葉では表せない。

戦争末期に母は直腸がんの手術を大阪の父の勤務していた病院で受けた。 その1週間後に大阪の大空襲があり母は婦長さんに抱き抱えられて防空壕に避難したそうだ。
幸い病院は残ったが辺り一面は焼け野原になり父に助けられながら疎開地の我が家に帰って来たことを思い出す。
テレビ画面の被災地の瓦礫の山を見ていると私のなかでは戦災にあって焼け野原になった昭和20年の情景がだぶってしまう。

比べるつもりはないけれどあの絶望的な惨状から立ち直った日本の底力を信じたい。
被災された方々が1日も早く元の平穏な生活を取り戻されることを心から祈っています。

自分のことに戻るが、地震の影響で余震、停電などで手術への不安が有った。 事実手術中に地震が有ったそうだが停電もせず無事成功して感謝している。
翌朝目が覚めて目に映った窓外の淡い有明の青空に
「ああ 生きている」
忘れられない!
     −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

大震災の有った2011年のブログは 2月21日から5月26日まで空白だ。
急性膵炎で夜中に救急車で入院、退院出来たのは5月7日でした。
退院してから当時のことを記したのを、今読み返して感慨ひとしおです。

添付写真は今日久し振りの術後のリンパ治療で病院に行った帰りに見かけたプラムの花。
こちらに来た時からのお馴染みでスッカリ老木になったが、健気に咲いた可愛い花に元気づけられました。

コメント

_ よっちゃん ― 2020/03/13 02:09

プラムの花をしっかりと認識したことがなかったです。
関西はすっかりあたたかく春の気温で桜も咲いています^_^
春の訪れを前にきのうはガーデンショップにいった際
プラムの苗木がセール580円でした笑
これは安いなーーっとじっと見つめながらまだ育てかたを
いろいろ調べてから苗を買おうとあきらめて
ブルーベリーとキイチゴとキンカンの苗をかいました。

_ カーリー ― 2020/03/13 04:00

私も阪神淡路大震災の時、宝塚にいて被災しました。いつまでも続く余震に怯える毎日でした。その後、今日まで 日本各地で大きな地震が続くようになった気がします。3月13日午前2時18分頃、輪島の方で震度5の地震があったとラジオ深夜便から聞こえて来ました。2ヶ月位前に、能登の温泉に行ったばかり。たまたま訪れた土地で大きな地震に会ったら本当に怖いでしょうね。

_ 美海 ― 2020/03/13 22:43

よっちゃん
プラムの花だと思うんだけど?
でも実もしっかり生ってるから〜
ただし老木で見上げるほどの大木です。
17年前に湘南から引っ越してマンション暮らしで庭木に縁が無くなりましたぁ。
羨ましい!

_ 美海 ― 2020/03/13 22:51

カーリーさん
いろいろ経験されてるのですね。
ほんと 大きな地震や自然災害が多くなったと感じます。
そういう周期があるのでしょうか〜
そのうえコロナ騒ぎまで。
蟄居しています。

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