悪夢?2019/09/24

先日、何気に讀んだエッセイが心に残って、今日もう一度ユックリ読み返した。

淡々と綴られた幼い時の思い出、そして女学生になるとアノ戦争で軍需工場に動員される。
戦争末期の爆撃で逃げ惑い、田んぼに伏せるも間直かまで降りて来て機銃掃射を。
よく無事だったとハラハラして讀みながら、大昔の当時の事を思い出した。

疎開先の街道を歩いていて空襲警報のサイレンがなると同時位に、もう敵機が頭上に、伏せてソッと見上げると操縦士の顔が見えて銃を構えていた。
時々、そのシーンが浮かぶのだが、現実だったのか悪夢だったのか、今では確かめるすべも無い。

私も、自分の人生の思い出を書き留めて置こう。
記憶力が悪くなった自分のためにです。

添付写真は久々の青空が嬉しくて。

コメント

_ taiko ― 2019/09/24 23:59

美海さんは大変な時代を生きてこられて。もちろん楽しい青春もたくさんあったとは思うけれど、私には想像するだけで怖いような体験もされたのかなあ。でも、そういうのも含めていまの美海さんになったのですよね。いつも尊敬しています。

_ アスカ ― 2019/09/25 08:11

小学校(国民学校)4年生の夏が、終戦でした。
疎開先・木曽川中流の田んぼの1本道を、片道30分徒歩で通いました。疎開児いじめを実感し、良い思い出はありません。

_ 美海 ― 2019/09/25 22:48

taikoさん
92年って、振り返れば長いですねぇ
私的には、悲惨な戦争体験、戦後の窮乏の中での自由感から得たものは大きかったです。
でもその後、不器用に周囲に何も貢献もしなくて 気侭に生きて来たなと今は恥ずかしい。
私のほうこそ、いつも taikoさんの お考えと実行力、ご活躍に魅せられています!

_ 美海 ― 2019/09/25 23:12

アスカさん
小学4年生での疎開生活はお辛かったでしょうね。
戦前は都会と農村の生活、文化の格差の酷い所が多くて。
それが戦争末期から食糧欠乏などで立場逆転で、都会から着物などを持って頭を下げて農作物と交換して貰いに行ったものです。
当時は、子ども社会にも都会に対する確執のようなものが有ったのでしょうか。

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